真宗の教相判釈(1)
3月の伝道研究会。
1月から、教相判釈に入っている。
教相判釈とは、教判(きょうはん)とも略されるが、釈尊一代仏教の相状差別を、批判し解釈するという意味だ。八万四千といわれる釈尊の教門は、対機説法で、千差万別の一代仏教の教義を組織的に統一して、自ら信奉する教義の地位を開明する「仏教統一論」ということが出来るもので、古来より、それぞれの宗派にある。同時に、これは「教門廃立論」をも意味しており、一宗の必要条件となり、これによって、自宗の優越性を示そうとするものである。
特に、親鸞聖人は、自ら一宗開宗し、教祖たらんという思い毛は頭なく、あくまでも、恩師法然上人の真宗を明かにしようとするものである。そこには、自ら己が生死出ずべき道に身命ををかけられた求道歴といっていい。血みどろの求道の果てに、ついに三願転入の体験を経て、そこには唯一の成仏道を身証し発見しえた、法悦と仏徳讃嘆の叫びとして理解すべき性質ものである。従って、そこに貫かれている求道実践の精神を見逃しては、宗祖の教判の真意を得ることは出来ないのであろう。
その宗祖の教判には、(1)二双四重判(二権二実の立場)から、(2)真・仮・偽判(三権一実の立場で、真宗の絶対性を示す)、そして(3)一乗海釈等である。
そのうち、2月に(1)二双四重判を窺い、今月は、(2)真・仮・偽判に入った。
内道(仏道) 真=横超・十八願(浄土真宗) 一実
仮=竪超・竪出(聖道の諸機)・横出(定散二善)三権
外道 偽=六十二見・九十五種の邪道
特に、仏道を目指すが、あくまでも、「真」にいたる為の方便として、暫用還廃の立場とをとる「仮」と、そして、宗教を名乗りながらも、迷信・俗信の類で、仏道とはことなる「偽」の立場を明確にされている特色がある。つまり、絶対判ありながら、単になる「真」と「偽」の二項対立ではなく、「真」に至る「仮」の立場を示されたところにも意味があるのだ。逆にいうと、「偽」はどこまで真摯であっても、「偽」の立場を離れられない、捨てものだといっていい。
文章にすると、たいへん難しく感じられる方もあろうが、具体例やこれまて学んだことの投げかけ、復習をしながら、丁寧に進行している。4月は、真・仮・偽判の続きからである。
◎4月4日(水)夜7時30分~9時50分。ただし、華光同人が対象です。
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