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通夜

 京都の古参同人が、またひとり往生の素懐を遂げられた。97歳である。

 母や事務所の皆さんと、通夜に参列する。

 ぼくが、修士論文でもとありげた、羽栗行道師のお育てもうけておられる。ずいぶんお若い導師が入場された。先生から数えて4代目が、もう立派に勤めておられるのだ。参詣は、華光の方も多かったので、皆さん、一緒に勤行された。感心したのは、遺族席でも、数名が聖典を持参し、お正信偈をあげておられたことだ。それにしても、前列には、法衣姿の僧侶が二人座っている。お若い方にはずいぶんやりづらいことだっただろう。

 ご法話も、「深い悲しみの中、ご一緒に、勤行くださり、ありがとうございます」から始まった。浄土真宗は、お浄土で倶会一処(くえいっしょ)という慈愛の世界があり、そして、皆、阿弥陀様のお力で、仏とならせていただいき、還相廻向のお働きをさせていただく教えだということをお伝えくださる。中抜き(肝心の信心はどうなるのか)ではあったが、お取り次ぎくださった。正直、『心身の革命』を精読くださっていれば、もっと嬉しいのだが、これはほんとうに大きなお世話だなー。

 それより、故人のお孫さんは、お祖母さまの影響で、子供のころから日曜学校や子供大会に皆勤で、いまでも仏青や日曜礼拝で活躍されている。子供大会では、ぼくの信頼する片腕として、随分、頑張ってくれている。確かに、仏法は、ひとりひとりが喜ぶものだ。その念仏者が亡くなれば、唯一の仏法が亡くなることでもある。しかし、同時に、またその喜びや姿を通じて、後に続くものが、仏法相続のお心かしっかりと受け継がれていく場合もある。そして、彼もまた、彼自身を姿を通して、仏法を喜び、彼の姿でそれを表現しようとしてくれている。

 仏法は、人や言葉を超えた教えだ。しかし、同時に、人から人へと伝わり、広がっていくのだから、また有り難い。

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