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輪読法座で感じたこと

 今月は、聖教のこころ(正信偈の帰入一味)、誌上法話(信を獲る)の1回目だ。

 常連が中心だが、少し遠方の方もボチボチ混じって、そこそこの人数になる。それでも、研修室で、車座に座るとちょうどいい人数だ。

 聖教のこころは、信心の五徳の二番目だが、他の五つについても、ちょっと押さえておいたが、教義的な話題になるとどうしても、静かになる。

 それで、求道中の方を中心に心境を語られた。心境というより、「どうしたら信心が獲られるのか」について、これまで聴いてきたことの総動員して作られたシナリオをお話くださる。かなり饒舌にお話くださるし、解答自体は、正解に近い言葉をたくさんならべておられる。しかも、最後には(自分なりのだが)、「正解」というものをもっておられるようだ。大半の時間を費やして、お話を窺うが、後生も、自分も抜けているのようにおもえてならない。といっても、ご本人は、とても真剣であるし、自分の問題、仏法、後生の問題に取り組んでおられるのは間違いない。そう語らずにおられないお気持ちも理解できる。しかしである。そのあれこれ計らっておられる、自分自身(主人)がまったくお留守なのである。だから、周辺の話題や状況や方法ばかりをぐるぐると回っているばかりで、結局、肝心の自分には触れていないのだ。

 ここは関わる上で難しいところだ。一応、最後までお聞かせに預からないことには、納得されないだろうが、1時間話されたとしても、ただ堂々巡りをしているだけであろう。

 だからといって、「自分に触れていませんよ。堂々巡りしているだけですよ」と事実をいくら理路騒然と指摘したといても、何の解決にもならない。間違いなく、次ぎの一言は、「では、どうすればいいのですか」という反応になるからだ。それは、説き手側も、単なる「正解」を伝えているだけであるからだ。
 またはこんな関わりにもなる。なかなか動かない態度に、説き手の方が、イライラしてきたり、または有り難くなってしまって(あまりにもご法が抜きで、しかも如来様ことなど微塵もないから)、感情的に強く迫っていくことがあるのだ。もちろん、そのことで、大きな展開が起こることがあったり、まったく予期せぬところに波及することも、しばしばあるのだが、大方は、なぜ、急に涙や大声になられたのかが理解不能で、「時間ばかりとらせて、すいません。次ぎの方にお願いします」と逃げられるか、傷つきやすい方なら、防衛的な態度をとられることもよくある。なにか、叱られているか、もしくは人格的なところを否定されたようなやりとりになってしまうケースもあるだろう。

 それに、グループでの関わりという点でも、難しいこともある。ひとりではない分、違う角度や、見逃してるところを、他の人達が異なる角度から指摘てきるメリットも大きいし、思わぬ化学反応が起こることもある。しかし一人の人に、大勢が同じような反応をしていくことで、想像以上に威圧的になっていることもあるだろう。または、もう少し話を聞きたいと思っているところに、頭ごなしに強い、熱いお勧めがあったりすることもある。司会役が止める場合もあろうが、しばしその司会役が熱くなったりすることもある。

 もう少し傷つけ合うような無駄なエネルギーを使うのではなく、状況を打開する上でも、先日勉強した、実感に触れてもらうアプローチが大切だろう。頭で状況や方法をグルグル回るのではなく、その状況に対する、いまのからだの感じに焦点をあててもらうのはどうか。もちろん、それがイコールご法を聞くこというのではないが、長期の無駄な堂々巡りより、打開をする動きにつながる気がするのだ。ただし、グループで行なうには、まだまだ勉強不足だし、コンセンサスかとれていない(ミニ・カウンセリング的な聞き方でもそうだけどなー)。

 そこで、形態でもう一つ関連することを考えている。最近の法座は、法話のあと、分級座談というグループ別での座談会が中心だが、一対一のご示談や相談の時間ももっとあっていいような気がしている。性急にならないで、じっくり話を聴かせてもらうことが大切な時も多いのだ。それで、いまの法座に加えて、定期的な相談日や示談の日を設けるとか、地方の法座なら、1時間早めに法座を切り上げて、ご示談を設定するなどの工夫もできるのではないだろうか。

  直接、今回の法座とは関係ないが、そんなことをいろいろと考えさせられるいいご縁ではあった。

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