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御正当報恩講

     もしそれ知識の教えなくば 永久の闇路に迷いぬらん

 念仏道場に集う、華光同人一同で「報恩講の歌」を唱和して、親鸞聖人の七百五十回大遠忌に当たる、報恩講のご満座も、称名念仏と共に閉じた。

  まことに如来のご恩ということをば沙汰なくして、われもひとも、善し悪しということのみ申しあへり(歎異抄)

 老壮若の先生のご法話は有り難かった。淡々としたものだったが悟朗先生のご法話は、正に親鸞聖人の大遠忌の報恩講にあたり、浮き彫りになるのは、報恩謝徳とは真っ反対に、仏祖へのご恩のかけらもない、恩知らずの私の姿であった。大恩あるものに逆らうものが五逆罪というならば、まさにそのものではないか。

 しかも、よくよく考えれば、未決定のものなら、如来のご恩の高きも知らないのも当然だろう。しかしながら、さまざまな先達、知識のおかげによって、その大悲のお心の一端に触れさせていただき、大きな幸せ喜ぶ身にならせてもらったものの実態はどうか。自分の身が善しの時は、仏法聴聞も盛んだが、わが都合が悪しになってくると、自分の都合を第一に、わが心とらわれ、その思いや気持ちを優先して、如来や師主知識への謝しても謝し難きご恩徳も遠い彼方へと去っていく。その上、「凡夫だから仕方ない」と開き直って、恥ずかしいも思わないのであるから、まさに無漸無愧のこの身そのものである。

 しかしである。そんな如来の大恩を踏みにじるものにも、「南無阿弥陀仏」の大悲の涙は当たっているのだ。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」。空しい、嘘だけらのこの迷いの口から出てくださる真実の称名こそが、一切の無明の闇を破り、一切の志願を満たし、この迷いの身にも功徳を満ち満ちさせてくださるのである。

 聖人の750回大遠忌の真の意義はどこにあるのか。

 いつまでも凡夫の小っぽけな迷妄にとらわれることなく、広大無辺の「南無阿弥陀仏」のひとつの響きに帰らせていただこう。

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