« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »

2012年1月の21件の記事

「瞑想と語りのサンガ」のご案内

 「真宗カウンセリング研究会」主催の行事で、カウンセリングWSを行ないます。

 「瞑想と語りのサンガ」~フォーカシング指向エンカウンター~

 2月18日(土)・19日(日)の2日間。(宿泊、食事は各自)

 会場は華光会館ですが、宿泊はできません。

 もともと真宗カウンセリング研究会の会員向けでしたが、定員に若干のあきがあるので、広く一般の方にも呼びかけをしています。

 講師の土江先生のWSは、これで3回目で、2年前には、華光会として司会者研修会の講師をお願いしました。単純な司会のノウハウではなく、もっと根本的な学びで、たとえば、グループを促進するための態度を学ぶと共に、自分自身の気づきや成長の場となるものだと思います。

 真宗カウンセリング研究会の方以外でも、華光の皆さんも、一緒に勉強しませんか。聞法に行き詰まっている方も、法座を促進していこうと思う方も、まだカウンセリングに関心のある方も、ない方も、一度、体験してみてください。

 阿弥陀様のご説法は、今現在説法。昔の説法ではなく、今まさにここでのご説法です。当然、それをお聞かせに預かるのものも、常に、いまここでお聞かせに預かるわけです。

 同じように、信、未信に関わらず、これで聞法が終わりということは絶対にありません。むしろ、法座を進めたり、その中心になっていくものほど、さまざまな角度からの学びは、常に必要だと思います。

 詳しくは、このHPで。会員向けになっていますが、一般の受付もしています。

 http://dbpca.web.fc2.com/details/20120218.html

|

『トーキョー・ドリフター』

Img_6947  松江哲明監督と、前野健太(マエケン)が組んだ第2弾の映画。『トーキョー ドリフター』の初日。二人の舞台あいさつがある。

 前回が2年前の10年2月。『ライブ・テープ』は、面白い音楽映画で、いまでもCDをよく聞いている。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-a6ff.html

 この2年の間に、世界も、また個人的な身にも、いろいろと変化があった。うーん、そう考えると感慨深いなー。Img_6946

 前回の舞台あいさつは、ほぼ満席だった。寒い中、外に並ぶのは嫌なので、昼の買い物についでに、みなみ会館で整理券をもらいにいく。

 整理番号は、3番。おー、前回も3番だったし、友川かずきの時も3番目だった。偶然とはいえ、3回連続で3番だ。

 時間にみなみ会館へ。

 ところが、これが拍子抜け。誰も並んでいないのだ。どうしたー。この2年で、マエケンもメジャーになってきたと思ってのに、土曜日の初日にしては、中の入りというところだ。

 映画は、2011年5月の夜から日の出まで、東日本大震災後に、ネオンの消えた東京の街を、ギター1本でさすらって、歌い、叫ぶというもの。前回と違うのは、バイクで移動したり、別のカットが挿入されたりしている。

 震災から2ケ月。東京は、節電で暗く、まるで斜陽の地方町のようだ。関西にいるものと、大地震、大津波、そして原発事故の影響を直接受ける東京との温度差はかなりある。見えない放射能の恐怖にしても、節電にしても、先の不透明感、不安感に覆われているのがわかる。

 その中で、声高に叫んだり、正義感をかざしたり、大多数の主張が、どこか安心して聞こえてきたりする。そんな強力なリーダーも求めていくだろう。しかし、そのために抜け落ちることも多くある。

 その夜は、雨が、アスファルトを叩いている。

 その冷たそうな雨の中を、ギター抱えた前野が歌いつづける。

 ドリフターとは、放浪者という意味である。まさに、当てもなく、金もなく、さすらう。3、11以降の日本そのものでもある。そして、その放浪者は、大声でなく、たとえ小さな声でも、自分の声で歌っている。

 たとえ明るくなくても、暗いのも悪くはない。必ず日は登り、朝を迎えるのだと、放浪者の姿と重なり合う…。

 舞台あいさつは30分と短く、饒舌な監督は不満そうだ。前回のようなミニライブはなかった。それでも、小さなロビーが幸いして、二人に声がかけらたてよかった。

 

|

不完全でもいいので…

  午後から、Rさんを交えて、事務所で大遠忌の打ち合わせをする。

 3月の法話大会はかなり形になっているが、これからがツメである。

 9月の大遠忌法要の法座は、これから企画が固まっていく段階だ。しかし、たたき台や具体的な話がでてきたことで、いろいろと検討が始まっている。4名で机を囲むうちに、やはねばならないことや急ぐべきこと、問題点や課題、また自分自身が理解していないことなどが、浮き彫りになってくるから不思議だ。

 最近、実感することだが、いろいろな仕事や役割を担う中で、仕事ができる人の働きぶりを見ていると、決定した取り組みへの反応がとても早いことだ。忙しい人ほど、すぐその場で動いていかれる。これはよく考えると当たり前のことで、後回しにすればするほど仕事がたくさん溜まるだけ。そんな仕事を抱えれば抱えるほどに、心に常に負担がかかり続けるので、いいアイデアなど出ないし、さび付いた仕事に取りかかるのに抵抗が起こったりする。夏休みの宿題がいい例だ。それより、たとえどんな小さなことでも、ひとつの仕事を確実にやり終えることを重ねていったほうが、充実感も起ってくる。第一、長くかかって完璧な案がでるならともかく、時間だけかかっていい加減なものだと、信頼関係を損ねかねない。また、あまりに熟考して思い入れが強すぎても、なかなか手直しや修正の要求にも抵抗が起ってしまうものだ。一層、試案や試作品の段階では、未完成やラフなものでいいから早く出して、修正を加えていったほうがいいのだろう。そうすれるほど、多くの人の声やアイディアで、もっといいものが生まれるチャンスが広がるのだ。

 ということに気づきつつも、現実は、なかなかそうならない自分もいる。このブログにしても、そうだ。書きかけてはやめたり、下書きに残って、時間だけが消費することも多いなー。まあ、ある意味でカンペキ性なのだろう。悪くいえば、グズグズしている。これは長年の性格だ。逆に、それだからこそ、ここも続いているんだけど…。

 というわけで、今日は早めの書き込みをした。

 他にも、仕事の合間に、真カ研の相談者のインテークの依頼があったが、即行で仕事が振れた。温めていたスカイプでの勉強会のお知らせも終えた。うーん、これは楽でいい。この調子で、依頼のあった原稿も書いてみよう。

|

六三法門

 一月の伝道研究会。

 今週になって、急に寒くなってきた。雪がチラついたりしている。夜は集まりが悪いかなーと思ったが、いつものメンバーは皆勤で、初めて加わってくださる方もあった。

 真仮廃立に入って、今日は「六三法門」の図から。皆さん、文章ではなく、図を眺めても特に味わいや感想もなかったが、あまり三蔵というところは聞かないなという声もでた。

  三願    三経    三蔵   三門  三機   三往生

第十八願-無量寿経 -福智蔵-弘願-正定聚-難思議往生

第十九願-観無量寿経-福徳蔵-要門-邪定聚-双樹林下往生

第二十願-阿弥陀経 -功徳蔵-真門-不定聚-難思往生

 聖人は、浄土門内の真仮を分別するのに、おおそそ六種を立ておられる。

 三願とは、弥陀の願海についての真仮廃立。三経、三門と、その異称である三蔵の三種は、釈尊の教説について真仮分判されたものである。同時に、この三種が、能被の法であるのに対して、三機と三往生は、その法を被る所の機(所被の機)について分別にあたる。(これに加えて、テキストには三土が加わっている)。

 と書くと、何か高尚なもののように思えるが、すべで、これまで輪読してきたことに関わることなので、もう一度原点に戻って、お聖教の上で確認していった。特に、三願の真仮廃立である。願文に戻り、十九願や二十願の「行」は何か、「信」は何か、そして利益は何かを、皆さんに問いながら進めていく。ならば、十九願の行である、「発菩提心」はどういうことで、「修諸功徳」とは、具体的にどういうことかなどとを考えてもらった。そのうち、「三願の信とも、『至心と、欲生我国』の二つは同じなんですね」と改めて驚かれたような声がでたので、今度は、大経和讃で、聖人の立場を確認していくというような流れだった。

  結局、ここは、「真仮を知らざるにより、如来広大の恩徳を迷失す」(真仏土巻)というところで、この真仮の廃立こそ、極めて厳重でなくてはならない一大事といっていい。 

 という形で進んで、一方的な講義ではなく、皆で探し、原文にあたり、そして確かめながら、分かる人も分からない人も、それなりに学ばせてもらうということである。だから、これでけっこうおなか一杯になります。

 ということで、来月からレギュラーに戻って第1水曜にあります。勉強苦手という方も、難しいのは嫌いという方でも、一度、参加してみてください。 

 ★2月1日(水)夜7時30分~9時50分。教判論に入ります。

|

忘れたころに…

Img_6898 先日、町内会長さんが回覧物と共に、大きな荷物をもってこられた。

 12月の町内バス旅行で行った焼き上がった陶芸作品を、配ってられるのだ。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-0a7c.html

 いろいろあって、もうすっかり忘れていたImg_6895

 ちょっとドキドキしながら、梱包資材をほどく。

 おおー、割れずにちゃんと出来てるじゃないですか。それなりにでも、ちょっとうれしいものだなー。

 子供たちは、ひとつの粘土を2つに分けたで、全部で5個完成している。Img_6896右が下の子だ。コーヒーカップの把手が、ちょうどかわいく付いている。まあ、中はほとんど空いていないので、何かを飲むのは難しいが、味がある。もうひとつは、ペン立てになりそうだ。

 左が、下の子だ。こちらは、一輪挿しと、灰皿。これも、使用するには、ちょっと難しそうだが、かわいく出来ていて、大喜び。

 ぼくのは真ん中の花瓶だ。念のため、水を入れてみたが、漏れなかった。そんなレベルの話したが、これは使用できる。

 まあ、3人とも、まったく初めてだったけれど、それなりの’芸術作品”が出来上がったということで、子供たちの希望で、しばらく飾っておくことになった。

|

恩とは? 徳とは? 

 久しぶりの日曜礼拝。一年ぶりに華光誌輪読法座と同時開催になった。前半の仏参は、大人も子供も合同で、「子供の聖典」でお勤めし、法話を聞いてもらう。

 前身の日曜学校の時から、お釈迦様の行事-花祭りや成道会-はあるが、何故か親鸞様の行事を行なっていない。今年は750回大遠忌でもある。せっかく1月に法話を担当するので、親鸞様のご恩徳、報恩講をテーマにご法話をすることにした。

 ところが、報恩の「恩」ということ自体、いまの子供たちに分かりづらい。感謝や「ありがとう」なら分かるだろう。ましてや「報恩」となるとどうか。また、親鸞聖人のお徳を讃えるといっても、その「徳」自体も、分からない。「恩」、「報恩」、「徳」、どうも戦前や封建社会の徳目のようで、いまは死語に近い。それでも、「鶴の恩返し」とか「恩に着せる」「恩知らず」、「道徳」という言葉なら、みんな知っている。

 それで大人に質問する。すると「恩」を辞書的に説明くださる。しかし、それでは子供は分からない。もう少し子供たちに分かりやすいようにお願いしたら、皆さん戸惑われている。親の恩という角度から、具体的に説明される方もあったが、なかなか難しい。ましてや「徳」になると、みんな沈黙である。何のことはない。大人も、実はよく分かっていないのである。そして、皆、異口同音に、人に「恩を着せる」が、恩人にも「ご恩知らず」の、「不徳」、いや「悪徳」の私だと言われる。「恩」が何やら、「徳」が何やら分からないわりには、恩も徳もない自分ということは分かっておられるのだから、面白い。

 「恩」は「子供の聖典」の「おかげ」の図からお話した。「徳」は、損得の「とく」と、徳まんじゅう(今日は、徳チョコレート)で説明した。恩にしても、徳にしても、実は私たち自身の目に入らない、気がつかないところで働いてくださっている。そのことを、具体的な例話でお伝えしてたら、では、親鸞様のご恩徳とは何かのメーン話題に入った。覚如様は、親鸞様には三つのご徳があるといわれたことに沿ったが、大人の方にとっても、「三つってなあに?」という感じで、新鮮だったようだ。

 輪読法座の最初の分かちあいでも、わが心は不徳で、ご恩報謝のかけられないという味わいが多かったので、こんな話をした。

 そんな人でも、未信者に、「虚仮不実の自分の感情や思いばかり追わないで、仏様のお心を聞かせてもらいない」とお勧めされている。ならば、ご法を喜ぶようになって、急に心が真実になるわけではない。ましてや仏様や師主知識のご恩深いことを知らされたのである。ならば、「いまはお参りする気がしない」のであるなら、頑張ってお参りさせてもらう。「ご恩報謝のかけられない」わが心を知らされたら、精一杯のご恩報謝の真似事をさせていただく。喜捨が嫌だと全身で言うからこそ、喜んで布施させてもらう。なんのことはない、ご法を喜ぶようになっても、わが心は虚仮不実で、しかも天の邪鬼なのである。人から強制されたら嫌がり、「聞け聞け」といわれたら、聞きたくなくなるものなのだならば、そんな時にだけ、自分の心に正直になる必要はないのではないか。
 お参りしたくないからこそ、お参りさせてもちらおう。
 称えたくないからこそ、称えさせてもらおう。
 ご恩報謝の思いがないからこそ、ご恩報謝させてもらおう。

 どうせ轉倒している迷いのわが心に従うより、逆の心をもちながらでも、ご法の声に従わせてもらえばいいのである。

 結局、それが聞くということではないのか。

|

龍谷ミュージアム~釈尊と親鸞展~

 雨の中、子供たちと龍谷大学の龍谷ミュージアムに行く。

Img_6903 招待券やボスターをいただきながら、休館日や大遠忌参詣の喧噪を避けるうちに機会を逸していた。報恩講が終わって、ちょうど空いていた。

 まずは、西本願寺へ。阿弥陀堂にお参りし御影堂へ移動しようとすると冊に阻まれた。残念ながら、報恩講直後から、工事のためしばらく参拝出来ないようだ。Img_6905

 せめて阿弥陀堂を背景に、キッズサンガの看板に収まって記念撮影をした。

 龍谷ミュージアムへ。ここは長い間「本願寺会館」というホールがあった。けっこう思い出ある場所で、日曜学校の何かの大会で、小Img_6914学校5年生の時に、舞台に立ったのを覚えている。その後も、高校時代には、毎年、文化祭の会場になったので、劇などもした。

 かなり老朽化したホールだったが、龍谷大Img_6908学の博物館に生まれ変わった。外観は面影ある建物を行かして、リニューアルされているが、内部の面影はなくなっている。外観は竹をイメージしたもので、内部も新しい木の匂いがして、いい感じだ。エレベーターの床まで木が張てっあって、ぬくもり感がする。

 750回大遠忌も記念して、「釈尊と親鸞」の特別展だ。

Img_6918 二階が「釈尊」のテーマで。「釈尊の生涯と旅路」では、ガンダーラの出土品などで分かりやすくそのご生涯が展示されている。お誕生のところに、甘露の雨も、七歩の歩かれた場面が無かったのは、ちょっと残念。そして、「釈尊の教えとその継承」「大乗仏教とガンダーラ・西域」、そして「浄土教の成立と展開」と続いて、コンセプトが統一された展示になっていた。ガンダーラの菩薩や釈尊は、彫が深い男前(?)がおおい。ガンダーラ語の「賢劫経」(よく先生の法話にもあった、賢劫期に現れる千仏の仏様のご説教が述べられる)は、3世紀ごろのバーミヤーンの出土で、ここにも大乗経典が伝播していたことが窺えて、興味深かった。また、目玉のひとつのベゼクリク石窟寺院の立体的復元展示は、色鮮やかで、ここを通ると子供たちも喜んでいた。

 三階は、「親鸞」がテーマだった。ちょっと日本の仏教文化を総括するには不足気味で、かといって浄土真宗だけだと、仏像よりも、絵巻や絵伝、著作などが中心となるので、2階に比べると子供たちは、退屈気味。ぼくも、先の「親鸞展」などと比べると、見劣りの感もあったのは事実。唯一、上の子が、聖徳太子をみて「かっこいい耳あてしてはるなー」と、まじで言っている。ああ、そんなこと考えことないなー。確かに、展示の3体とImg_6911も、洒落たヘッドホーンのように見えるということを、新発見。

 それでも、全体に、予想していたよりも、見応えがあって、楽しかった。2月になったら、第6期に両親を連れてくる予定があるで、今日はこのあたりで…。まあ、二人とも、飽きないで楽しそうに見れるようになって、その成長も感じた。Img_6922

 階段の窓から、伝道院の景観を取り入れている。ちょっと寄ったが、今日は閉まっていた。界隈の仏具街のユニークな空間を散策し、お茶を飲んでまったりと寛いだ。

|

近々の法座案内

  昨日から久しぶりにまとまった雨が降る。今朝もバラバラとした小雨が残ったが、このあたりは、まだ暖かくて雪にはなっていない。しばらく雨や雪のぐずついた天気が続きそうだが、大寒のわりに京都は温かいようだ。

 さて、今週末と、火曜日の法座の案内です。

1)大阪支部法座 1月21日(土)午後1時半~5時

 同人宅での家庭法座。長老といってよい御方だ。若手の先生が担当されるので、仏青も合わせて開かれるが、京都、大阪だけでなく、若い方と、先輩同人との組み合わせもよいことだなー。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/01/osaka2012-1.htm

2)日曜礼拝 22日(日) 午後1時30分~4時30分

 華光誌輪読法座 同   同     ~5時

 日曜日は、午後から華光会館での日曜礼拝と、華光誌輪読法座。日程の都合で、同時開催になった。合同で、子供の勤行参加し、法話も聞いてもらったあとで、大人は通常の輪読法座に別れる予定だ。華光誌の巻頭言と、聖教のこころが中心。日曜礼拝の法話も、久しぶりに担当することになった。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/01/rindoku2012-1.htm

3)伝道研究会 24日(火)夜7時30分~9時50分

 真宗基礎講座「教義編」をテキストにしているが、一方的な講義ではなく、輪読したあとで、さまざまな角度からの質問や味わいを通して、一人一人が自分の力量に合わせて深めていってもらっている。前回は、最初の真仮廃立の言葉から、自身の領解の告白やご示談という、通常の座談会のような内容になったが、またそれはそれで有り難い。今月は、六三法門からである。
 ただし、参加は、華光同人会員に限定して開かれている。

 今週は、宿泊や大きな行事はないが、比較的少人数で聞きやすい雰囲気があると思うので、奮ってどうぞ。

|

真宗は廃立法門なり

 11月の「総会」報告の為に、同人会ニュースを作製する。

 誌上法話は、伊藤康善先生の古い華光誌だ。今回は、新たに入力してもらったが、華光誌7巻4号と8巻1号に跨がる問答だ。といっても、いまと違って短いものだ。昭和23年のものは、まだ旧漢字だったり、漢語表現が多かったりもする。内容を損なわないかぎりで、現代表記にし、また「です」「ます」調に改めたりもした。

 内容はとても刺激的で面白い。 「真宗安心問答 」と題さているので、問いに解答する形式だが、その主張は一貫していて、痛快だ。

 「真宗は廃立法門なり」と題して、七祖や聖人の発揮から、覚祖、蓮師と流れる一貫した精神として、「廃立」をあげておられる。「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり」である。その本源は、弥陀の本願であって、廃立、選択本願で選び取り、選び捨てられて、十八願が成就されて、それが釈尊の金言となって、相承されてきたというのである。

 ところが、現代の真宗教界の風潮は、絶対他力とか、無条件の救済とかなどの言葉に代表される「凡夫そのままのお助け」の風潮にある。しかしこの言葉が、聖教のどこに準拠しているのかと問うておられる。

 充分な明文もないまま、阿弥陀様は無条件の救済「そのまま」だと勧めるだけなら、疑いも自力も、また他力一心も一緒くたにした「そのまま」となり、信疑廃立もなにもない、くせ安心だと喝破されていくのである。

 あえて、真宗の聖教の上にみるならば、二河白道で、如来の勅命に「一心正念にして直ちに来れ」とある、直来の二字を和語で現せば、「そのまま」になるという者もある。親鸞聖人はこの直来の二字についても、、『愚禿鈔』に廃立をかけて示しておられるという。その表現には、慎重な態度でのぞむべきだと注意されている。けっして、「そのままのお救い」をそのまま否定されているのではなくて、廃立のないまま、無闇に振り回し使われる風潮に、警告されているのである。

 では、阿弥陀様はお慈悲の救済者なのに、なぜ、ここまで、自力だとか、他力だとか、廃立だとか、信一念とか、問題にされているのか。そんな問いがでること事態が、真宗界が俗信仰に堕落した証拠だと嘆き、改めて、廃立法門である真宗の真骨頂を示されていくのである。

 これは、今日の真宗教界においても根は同じ。真宗が廃立法門であることを、第一に立てたような説教は、雨夜の星である。

 詳しくは、今月末、発行の「同人会ニュース」を楽しみに。

|

形になりだす

 今日は、担当者からの連絡が続き、750回大遠忌記念の企画法座が、各地で動きだしたことが実感できた一日。

 もちろん、すでに準備は進んでいるが、3月の法話大会も、内容だけでなく、運営面でも、形が目えだしてきた。進行、運営、さらにはPRに関しても、担当者が把握し、進めていってほしいのたが、なかなか進行せず心配していた。やっと打ち合わせの報告があり、少しホッとしたところ。

 9月の大遠忌の準備はこれからだが、こちらも進み出した。来週に、担当者と合って話し合う。他にも、関連した企画も動きだしているようだ。また、手違いでキャンセルになった「子供大会」の会場も、候補があがった。ほんとうに多忙の中で、何もかもお世話になっている。

 さらに、2月の会議の日程も決まって、だんだん外郭が整ってきたようだ。

 夜には、来年度(4月以降)の真宗カウンセリング研究会の相談で、龍大の研究室へ。
 世話人の固定化、高齢化、多忙化の問題がある。最初は、世話人が抜けたり、行事の縮小など悲観的な話が続いたが、最後に、協力というか、コラボ的に宿泊行事を企画する話題になって、急に展望が開けてきた。2月の宿泊ワークショップだけでなく、11月3日に、NLP(神経言語プログラムミング)のデモ的なワークショップを、華光会館で行なうところまで、一気に決まった。これは、ぼくはまったく初体験なので、楽しみだ。

 結局、意欲的、積極的な人が一人いて、それに呼応することができれば、一気に物事は好転し、決まるものだということを、目の当たりにした思いだ。

 ぼくが担当する月例会は、恒例のロジャーズ論文ではなく、総花的な入門書を読むことにした。ある程度学習している世話人クラスはよいが、いまの参加者は、断片的な論文よりも、総合的な学習も大切だと思ったからだ。何冊が用意した中で、手にも入りやすい、ブライヤン・ソーン著『カール・ロジャーズ』を選んだ。進行の方法は、これから考えていくが、今年も、しっかりと学ばせてもらおう。

 積極的で前向きな気持ちの一方で、外野から入る声で心配になる自分もいる。こちらは、杞憂に終わればいいのだけれど…。

 とにかく、ぼくは、いま自分の成せることを精一杯成すしかない。

|

御正当報恩講

     もしそれ知識の教えなくば 永久の闇路に迷いぬらん

 念仏道場に集う、華光同人一同で「報恩講の歌」を唱和して、親鸞聖人の七百五十回大遠忌に当たる、報恩講のご満座も、称名念仏と共に閉じた。

  まことに如来のご恩ということをば沙汰なくして、われもひとも、善し悪しということのみ申しあへり(歎異抄)

 老壮若の先生のご法話は有り難かった。淡々としたものだったが悟朗先生のご法話は、正に親鸞聖人の大遠忌の報恩講にあたり、浮き彫りになるのは、報恩謝徳とは真っ反対に、仏祖へのご恩のかけらもない、恩知らずの私の姿であった。大恩あるものに逆らうものが五逆罪というならば、まさにそのものではないか。

 しかも、よくよく考えれば、未決定のものなら、如来のご恩の高きも知らないのも当然だろう。しかしながら、さまざまな先達、知識のおかげによって、その大悲のお心の一端に触れさせていただき、大きな幸せ喜ぶ身にならせてもらったものの実態はどうか。自分の身が善しの時は、仏法聴聞も盛んだが、わが都合が悪しになってくると、自分の都合を第一に、わが心とらわれ、その思いや気持ちを優先して、如来や師主知識への謝しても謝し難きご恩徳も遠い彼方へと去っていく。その上、「凡夫だから仕方ない」と開き直って、恥ずかしいも思わないのであるから、まさに無漸無愧のこの身そのものである。

 しかしである。そんな如来の大恩を踏みにじるものにも、「南無阿弥陀仏」の大悲の涙は当たっているのだ。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」。空しい、嘘だけらのこの迷いの口から出てくださる真実の称名こそが、一切の無明の闇を破り、一切の志願を満たし、この迷いの身にも功徳を満ち満ちさせてくださるのである。

 聖人の750回大遠忌の真の意義はどこにあるのか。

 いつまでも凡夫の小っぽけな迷妄にとらわれることなく、広大無辺の「南無阿弥陀仏」のひとつの響きに帰らせていただこう。

|

天地がひっくり返っても…

 1月の広島法座は、廿日市が会場だった。

 今年の年賀状に書かせてもらった「連続無窮のお働き」と、あるブログからヒントを得た「たとえ天地がひっくり返っても、阿弥陀様のお慈悲だけ変わりはない」という二つのお言葉を中心にして、浄土真宗の他力廻向信について一緒に考えていただいた。

 結局、ぼくたちは、「天地がひっくり返える」ような自分の都合の悪いことを恐れて、世の中安穏であれと願っている。そこにあるのは、自分中心の善し悪し、もしくは幸・不幸である。ところが、そんな「天地がひっくり返りませんように」と一喜一憂するかしない私にめがけて、「天地がひっくり返ることが必ずおこるゾー。虚仮不実の身、迷いの世だぞ」と叫び続けておられるのが、阿弥陀様だ。その本願だけが末通った、変わらぬ真実だというのである。つまり、浄土真宗の信仰したとしても、我が身に都合のよいご利益など臨めない。むしろ、こんなことは嫌だという驚天動地の事態も、わが身に受けていかねばならない。そんな真実を真の当たりにして、ますますわが身の不実と、仏説のまことを味わい、そして念仏申させていただくだけなのである。ある意味、私の欲望、または人間の常識を超えた真実であり、道理だといっていい。ご信心の世界は、その真実に触れさせていただくことである。

 明日からの報恩講のご法話も、聖人のご恩徳に触れながら、上のような骨子で進めていくことになるだろう。

 ただ広島法座では、法話の途中で、ある退会者の発言を通して、全体に感想を求めたら、声をだせる人と、出せない人がいることに気付いた。それで、急遽、法話の途中だっだが、少人数での話し合いの場に切り換えた。全体座談や分級とも違って、ブレーンスートミング風に5~6名のグループにわけ、協力的に、全員が声を出してもらったのである。初めての方や異なる見解をもつ方も声がだしやすいし、怖い先輩の目をきにしなくてもいい。案外、初参加の方が交わっていたところが、一番熱心で、成果があったようだ。法話と法話の間に挟んでみたが、機会があれば、今後も試していきたい。

 

|

過去帳

 報恩講にお参りくださるのに合わせて、依頼されていた「過去帳」を記入する。

 けっしてうまいとは言えないが、せめて心こめて丁寧に書かせてもらった。

 浄土真宗では、位牌を用いない。もちろん、そんなところに魂が宿ったりしないのである。

 真新しいものなので、最初に「南無阿弥陀仏」と筆墨した。

 お仏壇の前に座っても、まず「南無阿弥陀仏」と称名念仏するように、浄土真宗では、すべて「南無阿弥陀仏」から始まり、「南無阿弥陀仏」と頭を垂れて終わるのである。

|

いつの間に…

Img_6844  年末年始に行きそびれていた散髪に行く。

 梅小路公園を横切ると、京都水族館の文字が…。

 昨年の2月には、まだこんな形Img_3964だったのになー。

 いつの間にか完成していた、時の流れに驚いた。開園は3月で、あと2ケ月ほどしかない。当然といえば、当然のペース。

Img_6846 半円形の野外ステージが見えるので、イルカショーなどもあるようだ。このあたりが工事中の写真だろう。

 うーん、内陸の京都市中心部に、イルカショーや海獣のアトクラションが、ほんとうに必要だったのかどうかは、いまでも疑問。

 土地はあったが、紆余曲折あって駐車場の設備もない。果たして現状分だけで、ほんとうに大丈夫なのだろうか。

 と問題を感じつつも、歩いても行けるお手軽な距離にある。間違いなく子供を連れて行くことになるだろうなー。 

|

初自力

  朝、自力整体の教室へ。

  会場の都合で、新年の始まりが遅かったので、2週間以上も空いている。

年末年始はお酒やご馳走の機会が多かった。その上、ひとりでのレッスンはまったくサボったし、散歩も、最近はご無沙汰している。唯一、肩や首の凝りをほぐすために、10数年ぶりに再開したダンベル体操だけは、ボチボチと続けている。これが15㎏のダイエットの原点でもあったのだ。

  ほんとうに、からだは正直だなー。

  いつもは平気なことが、今日は苦しかったり、きつかったりする。案の定、体内年齢も、いつよりオーバー気味だったが、まあ20代だったので許容の範囲内か。また週一でも、定期的に続けていると、春には戻っているだろう。

|

まもなく親鸞聖人報恩講

 成人の日。

 裏の路地から晴れ着姿の新成人が式に出かけていった。街に出ると、晴れ着や真新しいスーツ姿の若者に、出会うことも多かった。ぼくは、式のタイミングを逃して、成人式には参加していないので、まったくこの点の感慨はないが、それでも、着物の慣れない歩き方をみると、微笑ましい気持ちにはなるなー。

 さて、この週末は、華光会でも報恩講を迎える。

 1月14日(土)昼1時30分、夜7時

   15日(日)朝9時、昼1時30分

 4座に4名の講師のご法話と分級座談会を予定している。もちろん、昼座には法要があり、一同でお正信偈が勤まるので、どうぞ、奮ってご参集ください。

 なお、宿食の申込みは、一応締め切っているが、参加のみの方も、事前に、華光会館までお申込みくださると、受付が大いに助かります。ご協力をお願いします。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/01/hoonkou2012-1.htm

|

考査(テスト)

 ぼくは元旦から法座があり、ご馳走三昧やゲーム三昧の合間にも、申込みや問い合わせの電話や来客の対応があったが、華光会館の事務所は、今日からが仕事始めだ。報恩講の〆切も近いくて、申込みの電話もある。ムラ君も、引き継ぎのためにきてくれていた。

 もっとも、ぼくは朝9時から夕方16時まで、ずっと某所に出頭して、机に座って講習を受講し、最後にはテストを受けていた。簡単なのは分かっていても、この年になっても、やっぱりテストの結果は、少し緊張するよなー。

 でもまあ無事に、修了。

 このところ、経験していないことが、何でもありますわー。

|

サーカス

 正月から寒い日が続いている。今日は、夕方から雪になってきた。

Img_6816 それでも、子供たちを連れてサーカス見物に行くことになっていた。

 近くの工場の空き地に、サーカスのテントが張られている。12月から2月の始めまでの長期公演だ。テントでの興行なので、寒いのは覚悟して用意は万全だった。でも、雪Img_6822の中、自由席には列ができている。タダ券だったが、お金を足していい席にした。座席指定は、小刻みな巧みな料金設定がしてある。

 子供たちには、初めてのサーカスだ。ぼくも、サーカスなんて、小学生の時の木下大サーカス以来。大昔のことだが、バイクや猛獣Img_8008のことは覚えているから、けっこうインパクトがあったのだろう。そう考えていたら、大人になってから、中国で上海雑技団の妙技を見ている。これはパンダまで登場し、猛獣やバイクにしてもアクロバットにしても一流で、しかも専用劇場みたいところで、エンタテーメントのショーといった感じがした。Img_8017

 出かけに、子供たちに、「サーカスっ何があるの?」と尋ねられたので、「アクロバットや、トラのショーや、空中ブランコ、綱渡りなんかで、ワクワク、ドキドキ楽しいよー」といっていたので、二人ともとても楽しみにしていた。残念ながら、今回は、舞台も小さく、猛獣(動物)も、綱渡りもなかった。それでも、Img_8021アクロバット(中国の方だろうなー)やファイヤーショー、メーンのカーアクションと空中ブランコなどが間近に見れて、迫力あって、かなり楽しかった。

 二人とも大喜び。下の子は、「ハラハラしてちょっと無理」という。そんなに怖かったのかというと、何度も、ピエロが観客をからかいにきたり、舞台に引っ張りだされるからだ。正面の席だったので、ぼくの前の人がからかわれたり、当たりそうになったからだ。ショーよりも、それが一番、ドキドキしたというのだ。ああ、そこもサーカスといえばそうだけど。

 まあ、引っ張りだされるのが恥ずかしいのは、大人のぼくも同じだけどね。

|

ゲーム三昧

Img_6790 子供たちと、正月の買い物。

 2日には、名古屋の従姉妹に連れもらって、河原町四条に買い物にいった。ぼくは、送迎係をしたが、京都駅や四条・河原町界隈は、たいへんな渋滞だ。幸い、送迎だけなので、混雑した道を避けたが、それでも、いつもの3倍Img_6823

 3日は、京都駅のイオンモールへ。こちちは、お年玉で、おもちゃや本を買う段取りである。クリスマスがない分、すこしだけ豪華になる。でも、TVゲームはNGなので、ボードゲームなどが中心。上の子が安いものをひとつ、下の子が二つ買った。上の子は、おもちゃよりも、本がいいのである。叔母さんにもらったImg_6833ものに加えて、ハリポッターのシリーズを購入していた。

 女の子の服を、3人で選んでから、お揃いのパジャマや小物も少し買った。ぼくが子供の服を選ぶは初めてだが、二人とも、かなり自分の好みがあるので、楽だ。ぼくは、ちょうどセール中だったで、カジュアルなシューズを購入。Img_6831

 あとは、ゲーム三昧である。

Img_6799 ラビリンスという迷路ゲームもやったが、大半は買ってきたもので遊んだ。

 思ったよりも、このロケット型のゲームが手軽ながら、ハラハラ感があって楽しかった。カラフルな棒を抜いて、中の玉を落とさないようにするだけの単純なもの。大人も子供も、Img_6807それほど差が付かないところがいいなー。

 もうひとつは、ファンでチョウチョウを飛ばしたものを救うというもの。少々大がかりで、音楽や風が出る仕組み。一勝負が早く済むのはいいが、二人での勝負になる。

 そして、メーンは、TV番組とタイアップした「「逃亡中」というボードゲーImg_6825ム。下の子が最初から狙っていたものだ。

 ところが、ルールが複雑で、子供だけではできない。説明書を片手にImg_6795、2、3度やって、だいたい理解できるようになった。まだ単純な片面のみで、下の子が出来そうなローカル・ルールでやっている。これは、これから習得していって、何度もやらせれることになるだろうなー。

 というわけで、報恩講にお出でになったおりには、皆さんもお相手よろしくお願いします。

|

ご馳走三昧

Img_6771_2 三が日は、ご馳走三昧。

 朝は遅いので、修正会の前に、族揃って、お煮染めで新年を祝う。元日は、いつも京都風に、白味噌に、丸餅、そして丸大根や京ニンジンのお雑煮。少々甘めだが、Img_6788これがおいしい。ただし、白味噌に慣れていないと、苦手だという人もいるようだ。とにかく昼は、和食で祝す。子供の時から、くわえと、甘栗が好物だ。

 修正会が終わると、夕食は外食になる。今年は、三条先斗町を下Img_6779った路地にあるお店へ。夏には納涼床になる。古い町家のお店なので、ちょっと肌寒いが、2階の個室だったので、ゆっくり出来たのがよかった。

 2日目昼は、名古屋の義兄と姉の洋風おせちだ。個数限定の手作り商品なので、本格的。キッシュも美味Img_6780だったが、ファグラも使用されていて、なかなか豪華だ。豆も赤ワインで煮てある。2日目のお雑煮は、カキのおすましになる。元旦、2日目は、ぼくの子供のころが決まっている。

Img_6778_2 夜は、今年はいつもと少し嗜好が変わって、浅野屋特選のカレーと、ハヤシライスに、具だくさんのマリネなどが添えてあった。食後は、やはりシェフ特選のクルミパイ。

 3日目の昼は、子供たちとおもちやの子Img_6784供服の買い物に出かけたので、外食。夜は、タラをメーンにした湯豆腐。ほかにも、いろいろな多彩な具が入るので、水炊きに近いかもしれない。豆腐は、31日の日に、豆腐屋さんにぼくが取りにいくのが、恒例だ。「1年に一度、必ず、に息子さんに会いますね」と言われた。子供のころから、この湯豆腐が、ぼくの好物だった。

Img_6785 これだけご馳走を食べ、お酒も飲むと、けっこう体力がいるのか、眠くて、昼近くまで寝ていた。お正月は特別なので、子供たちとも夜更かして遊んだ。Img_6786

 とにかくご馳走さまでした。

 それにしてても、9名分の準備と、後片付けのある母にとっては、たいへんな3ケ日Img_6787であった。おつかれさまでした。

|

修正会

Img_6768 謹賀新年

本年もどうぞよろしくお願いします

 穏やかな元旦。青空が広がっている。Img_6756

 3階で名古屋の姉家族を交えて、おせちを料理を食べてから、修正会に臨む。

 気候のわりには参詣者は少なめ。それでも、広島や愛知、静岡などの遠方からの参詣者もあった。1年の始め、皆さんで声をひとつにして、お正信偈をお勤めし、「現世利益和讃」をあげさせてもらう。勤行が終わり、そのまま『三帖和讃講讃』(上巻)の「現世利益和讃」の通釈を、15首通して拝読をしてみたが、また違った味わいがしてよかった。来年は、予めコピーしImg_6772て配っておいたらいいかもしれない。

 ご法話は、S君の提案で、同人、仏青会員向けにネット配信した。急に決まったので、元日からご覧くださった方は多くはなかったが、それでも反響はあった。

 誌上法話『後生の一大事』(増補新版Img_6763生の一大事』のタイトル章)を読んでのご法話。松並松五郎氏の逸話がすさまじいが、並外れた称名の行、不思議な感得が往生の証拠ではなくて、誓願の不思議、弥陀の計らい、つまり南無阿弥陀仏のお手許にすべて収まっているところでの喜びが、実に有り難い。ここはいつ読んでも、涙するところだ。

 記念撮影をし、一言ずつ法話の感想や抱負を分かち合った。
 下の子は、「『皆さん、お年玉を下さい』とお願いするわー」と、新年早々、大胆な野望を抱いていたが、いざとなると名前と学年を言うので、精一杯。いくら凡夫丸出しでも、飾りたいのは同じだなー。そんなPRしなくても、かなり皆さんお気をつかっていただきましたが…。ありがとうございます。

|

« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »