真宗は廃立法門なり
11月の「総会」報告の為に、同人会ニュースを作製する。
誌上法話は、伊藤康善先生の古い華光誌だ。今回は、新たに入力してもらったが、華光誌7巻4号と8巻1号に跨がる問答だ。といっても、いまと違って短いものだ。昭和23年のものは、まだ旧漢字だったり、漢語表現が多かったりもする。内容を損なわないかぎりで、現代表記にし、また「です」「ます」調に改めたりもした。
内容はとても刺激的で面白い。 「真宗安心問答 」と題さているので、問いに解答する形式だが、その主張は一貫していて、痛快だ。
「真宗は廃立法門なり」と題して、七祖や聖人の発揮から、覚祖、蓮師と流れる一貫した精神として、「廃立」をあげておられる。「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり」である。その本源は、弥陀の本願であって、廃立、選択本願で選び取り、選び捨てられて、十八願が成就されて、それが釈尊の金言となって、相承されてきたというのである。
ところが、現代の真宗教界の風潮は、絶対他力とか、無条件の救済とかなどの言葉に代表される「凡夫そのままのお助け」の風潮にある。しかしこの言葉が、聖教のどこに準拠しているのかと問うておられる。
充分な明文もないまま、阿弥陀様は無条件の救済「そのまま」だと勧めるだけなら、疑いも自力も、また他力一心も一緒くたにした「そのまま」となり、信疑廃立もなにもない、くせ安心だと喝破されていくのである。
あえて、真宗の聖教の上にみるならば、二河白道で、如来の勅命に「一心正念にして直ちに来れ」とある、直来の二字を和語で現せば、「そのまま」になるという者もある。親鸞聖人はこの直来の二字についても、、『愚禿鈔』に廃立をかけて示しておられるという。その表現には、慎重な態度でのぞむべきだと注意されている。けっして、「そのままのお救い」をそのまま否定されているのではなくて、廃立のないまま、無闇に振り回し使われる風潮に、警告されているのである。
では、阿弥陀様はお慈悲の救済者なのに、なぜ、ここまで、自力だとか、他力だとか、廃立だとか、信一念とか、問題にされているのか。そんな問いがでること事態が、真宗界が俗信仰に堕落した証拠だと嘆き、改めて、廃立法門である真宗の真骨頂を示されていくのである。
これは、今日の真宗教界においても根は同じ。真宗が廃立法門であることを、第一に立てたような説教は、雨夜の星である。
詳しくは、今月末、発行の「同人会ニュース」を楽しみに。
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