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百カ日法要

 少しだけ遠出で、百カ日法要にでかける。ちょうどご命日から百日目という区切りである。百日目が仏教的にどんな意味があるかは、諸説があるようだ。ネットで検索すれば、浄土真宗の立場を説明してくれるサイトもある。

 百日だろうが、1周忌や50回忌であろうが、ぼく自身が臨む姿勢は同じで、お伝えすることもひとつだけだ。

 ご一緒に声に出してお正信偈をあげ、ご法話を聞いていただく。もし質疑や感想をいただけるのならありがたい。故人の思い出を、全員の一言ずつお願いしたりもあるが、けっこう苦手だと嫌がられる方もある。立派なご挨拶をしなければ、構えられるのである。

 これまで仏壇もなく、手を合わせたり、読経される機会も少なかったご家庭だったので、浄土真宗のイロハから初めている。話したいことはたくさんあるが、欲張っても伝わらないだろう。「浄土真宗の法事は、単なる故人を供養するのではなく、このご縁を通して、生きている私が南無阿弥陀仏のみ教えを聞かていただく。そして、私とは何か、何のためにいのちをいただいたのかが、お念仏に会えば必ずわかる。そのご縁をいただく場です」といことは、必ずお伝えする。そして、手を合わせられたら、「必ず、口に出して南無阿弥陀仏とお念仏してください」とのお願いする。すると、最後には、小さくても、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の声が聞こえてくる。もっとも、しばらくぶりにいくと、冒頭は声がなく、最後には「南無阿弥陀仏」となる、その繰り返しだが、勤行といい、お念仏といい、これまでお育てがなかっただけだ。それが、今、ほんのわずかでもつながったのである。ほんとうに微力だが、大切にお取り次ぎするだけである。

 今回は、過去帳を預かったので、1月のご正忌報恩講のご満座に、お参りくださることになったのは、うれしい。まずは、関心をもってくださる方からである。

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