華光大会終わる
3日間の華光大会が終わった。
今年は、連休がなくて金曜日からのスタート。それでもかなりの参加者数 が、土曜日、日曜日に集中して、土曜日の昼間は道場に入りきれず、宿泊をお断りした方も多かったが、実に多くの方がお参りくださった。
大会中は、法座だけでなく、会議や反省会もあって、忙しい。総会もあるので、事前準備もたいへんだが、もう少し効率よく会議ができないかと、このあたりは工夫が必要だ。
プライベートではいろいろと困難な状況だが、この虚仮不実の世の中にあって、ますますご本願の尊さが光輝いてくることが、有り難い。私が求める幸せは「おれが」「おれが」の欲望そのもの。如来様が回向くださると真実は、そんな世を超えた、まさに超世の悲願であって、まったくスケールも、レベルも違うものだと、改めて実感させれらている。だから、限りある私の方からは絶対に届かないのである。真実の如来様からの一方的なお働きによってしか遇うことのない世界が、ここにあるのだ。そのことを、喜べる身にならせてもらった幸せに、お念仏させていただくしかない。
法話は、唯除のこころをいただいた。つまりは私は轉倒(てんどう)しているのである。五逆にしても、謗法罪にしても、大恩なるものを大恩あるとも知らずに、逆らい、謗り続けている。いや、逆らっているとも、謗っているとも知らないのである。この「逆」の字がありがたい。逆らうのであり、そして逆転しているのである。『子供の聖典』にある、内省の世界の三角形の図だ。お山の大将の私は、うぬぼれて「おれが」「おれが」で、どんどん上へ上へと登っていく。そのためには、多くのいのちを犠牲にしている。食べ物であり、着る物となり、父となり、母となって、すべてが私を支えてくださる大恩あるものなのだ。そして、そのいちばんのどん底には、仏様がおられる。しかも、その如来様は、私が上に上にとあがるために作りと作った罪業の世界である私の地獄の中で、私を呼びつづけ、叫び、待ってくださっているのだ。
キリスト教圏の外国の方が、この図を見て、「これは反対ではないか。仏(GOD=神としてもいいが)は、上にあって、私たちが下にいるのだ」と言われたと聞いた。まさに、「天にましますわれらが父」なのである。しかし、そうではない。それが逆転している姿だ。私の聞法は、上へ上へと如来様を求めている。自分の足元がお留守にして、人は批判しても、けっして頭を垂れて聞くことはないのである。だから、絶対に救われないのだ。実は、お聞かせに預かることは、絶対に救われない、除外された自分に涙させられることである。唯除とは、仮の方便ではなく、実除なのである。そう、絶対に救われない私、地獄一定の私を、私の地獄の中で、待って待ってくださっているのである。
またまたこれがほんとうの意味での、わたしたちの常識を逆転した、超世の真実の世界なのである。
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