金戒光明寺
毎年、春は桜、秋は紅葉の京都を、家族で楽しむことしている。たとえば、昨年なら、永観堂→http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-5056.html
今年も母のリクエストで、くろ谷の金戒(きんかい)光明寺へ。ただし、ここはライトアップはない。お昼をすぎてから、大人3名だけで少し足を延ばした。
ここは、法然上人ゆかりの浄土宗の大本山で、800年大遠忌にちなんで、方丈や庭園などを特別拝観をされていた。もちろん、この地は、親鸞聖人もゆかりがあるので、真宗の岡崎別院ともつながっている。
15歳で比叡山に登られた法然上人が、承安5年(1175年)43歳の時に、専修念仏を広めるために、山頂の石の上でお念仏をされると、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵を結ばれることとなる。そして、比叡山の黒谷をくださり、ここに草庵を結ばれたのが、浄土宗最初の寺院のはじまりだ。だから、「紫雲山 くろ谷」 金戒光明寺と呼ばれるのである。法然上人は、智慧の法然房と称される、当代随一の方であった。だから、智慧の働きである光明との縁が深くて、親鸞聖人もその意味内容の和讃を残されている。
方丈の入り口の立派な松は、熊谷直実が、平敦盛を討ち取ったが、世の無常を感じて、法然上人に帰依するために、この地を訪れられたときに、鎧をかけた松だという。真偽はともかく、おいわれも尊い立派な松だった。
御影堂には、法然上人75歳の御坐像がおまつりされていた。浄土真宗と違って、阿弥陀堂の阿弥陀様も坐像だった。
さて、ここの山門の勅額には、「浄土真宗最初門」という後小松天皇の宸翰が掲げられている(いまは写真不可だった)。この「浄土真宗」の文字をめぐって、江戸時代には、浄土宗と、その当時「一向宗」「門徒宗」と呼ばれていた現在の「浄土真宗」と一悶着おこるのだが、あくまで「セクト」としての本家争いのようなもの。法然上人や親鸞聖人は、泥凡夫が南無阿弥陀仏の念仏一つで、最高の仏に成る教え、もしくとはその生きた私へのお働きかけを浄土真宗と名付ずにはおられなかったのであるから、ここでの世俗の政治的な意図での宗名争いとは、まったくの別物だ。たまたま、山門が修復中で、山門内の宝物と合わせて、この勅額もごく間近で拝見させてもらえて、ッキーだった。
また、三門に安置される釈迦三尊や十六羅像も間近で拝観できた。ただ「アレ?」と思ったのは、わが胸を開いたら、その胸に釈尊がおられる羅漢像は、釈尊の実子、ラゴラ尊者だとずっと思っていたが、ここではラゴラさんがその後ろで、別の方の表札があったのは、ちょっと不思議なか感じがした。
幕末には、京都守護職会津藩一千名の本陣にもなったので、松平容保と新撰組にもゆかりの部屋があったり、会津藩の墓所があるのも、また江戸幕府と浄土宗とのつながりのゆえであろう。さらに、今年の大河ドラマ(一度も観たことはないが)の「江」(ごう)の墓所などもあったが、少しまえなら見向きもされないだろう。
お庭は回遊式の新しい庭園で、法然上人の生涯を、幼少期、比叡山期、浄土宗開宗に分けて石が置かれていたが……。
さて、重文の三重の塔の登り口に、五劫思惟の阿弥陀様がおられた。まるでお釜かぶっておられるようなユーモラスなお姿で、この像からは、緊迫感というか、真摯さはあまり感じられない。隣に「江」の墓があるので、皆さん参詣されるが、誰も阿弥陀様の前は素通りで、目に留めらるか方は誰もなかった。
いろいろと見どころもあるのだが、真如堂と合わせて、善き知識を求めておられた伊藤康善師の御旧跡の地でもある。詳しくは、『仏敵』の第1章にある。「浄土真宗最初門」のことにも触れておられる。だから華光会の聞法旅行でも、『仏敵』の旅の時に、お尋ねしている。
最後に、父が一言。法然上人が開かれた念仏道場なのに、誰も念仏を称えてお参りしている方はおられなっかたった。まあ、ほとんどが観光客でしょうからね。
11月も終わりだというのに、穏やかだ。父もまだ元気だったので、一千体を超える広大な墓所を、三重の塔から、会津藩の墓所を通って、隣の真如堂まで歩くことにした。
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