願寿寺報恩講法座
華光大会が終わったばかりだが、兵庫県山崎町の寺院布教に出かけた。もともと、宍粟組(そ)の集い、連研やお待ち受け法要などの会所(会場)で何度かお邪魔していたところだ。報恩講は、曜日ではなく、日時で決まっているのだが、23日が華光大会と重なってしまう。それで、ここ2年は、1週間後にある永代経法要のご縁をいただいていた。それが、今年は、華光大会が早かったので、報恩講法座のご縁に遇えた。
ここのご住職とは、不思議なご因縁がある。もともと35年前に、大学の宗教教育部から、華光日校に派遣されて、同級生だった姉と、日曜学校を担当されていた。その時は、ぼくはまだ中学1年生の生徒だった。それからご縁があって、ぼくがお邪魔することになるのだが、別に日校に来たくださっていたことは、後になってわかった。そして、今度は、実践真宗学科の大学院に通う当寺院のお嬢さんと、博士課程の連れ合いが、バークレーの交換留学生として、来年9月からの1年間の米国留学にすることになったのである。合格は2名だけというのだから、これもまた奇しきご因縁がひとつ増えた。子供のことが心配なので、知り合いがいるというだけでも、ぼくも安心できる。
報恩講のご縁である。お斎の接待があったり、コーラスがあったりもするが、2日間で、4座のご法縁。750回忌大遠忌の年だ。親鸞様のご恩徳に触れないわけにはいけない。それで、初日は、恩についてと、聖人の流罪の意義についてご法話した。
夜座は、法話を1時間の一座にして、残りは車座になった座談会にすることになった。さすがに法話が終わると帰宅される方も多かったが、残った方は、それなりによく聞いておられたり、問題をもっておられる方だった。半数が、出勤された法中のご住職と大学院の学生さん、残り半分が檀家さんだ。皆さんに法話の感想を一言ずつお聞きする。びっくりしたのは、お寺さんよりも、檀家さんの方が、法話の内容に触れた一言をくださったことだ。もっとも苦戦していたのが、実践真宗学の学生さんたちだ。一
般の寺院育ちの彼らには、こんな機会はまずないだろうと思って、いい実践法座の場だと設定したのであるが、法話の感想を尋ねられて明かに困惑している。意見や発表をするのならともかく、その場で感想を分かち合うことは、慣れていないものには難しいようだ。表面的には、話す力や発言力が問われているようで、実はそうではない。いま、何を聞かせてもらったかの、聞く力が問われているのであ
る。彼らは、実践真宗学という新しい分野の大学院生たちなので、いまの研究分野を尋ねると、環境問題とか、ビハーラ、海外布教に過疎地域のコミニティーの活性化と、現在的な真宗が抱えているテーマを意欲的な語ってくれた。また勤行や法話の勉強もされている。しかしである。いちばん肝心要のことが抜けてはいないのか。実践真宗学というのなら、まずいちばんに、わが信や如何にという、自身の求道、聞法こそが、実践の実践たる所以ではないのか。法座という教化体制と、安心という信心の両輪が、真宗の拡がりの原動力だった。はやりの社会問題に飛びつくだけでなく、もう一度その原点に戻って、同行学を行い、現代的に解明していくことが、実践的な真宗の使命だと、ぼくは思っている。その意味では、実践的で、主観的な聞法学や求道学こそが、もっとも重要な分野なのであり、そのことを担っている一番手が、華光の集いだと自負しているのである。せいぜい手弁当をもって、華光に聞法にくるのが、いちばんの実践なのになー。だって、生きた人間を相手にしているところだもの。
座談会のあと、深夜まで続いた懇親会で、僧侶の皆さんと一杯飲みながら、そんなことを語り合い、これからは、もっとワクワク感のある、活気のある企画を共にやって行きましょうと語り合った。どこまで実現するかはともかく、小さなことでもできる事をやっていきたいものだ。
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