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2011年11月の15件の記事

真如堂の紅葉

Img_6608 金戒光明寺から真如堂へ歩く。 

 秋の紅葉シーズン、平日だが混み合っている。いまから18年前の秋に、紅葉を見にきた時には閑散とした隠れた紅葉の名所だったが、いまでは有名な観光寺院の一つになって、ずいぶん、雰囲気が違うようにも思った。ほんとうに諸行無常で、移ろいでいくのであるが、変わらないのだと自分だけが思っている。Img_6604

 真如堂は、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺。正式には、真正極楽寺という。「世に極楽寺という寺は多いけれど、こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味があるそうだ。もちろん、ご本像は、阿弥陀如来で、お念仏も修されている。一般Img_7947_2にいわれる「真如堂」の呼び名は、もともとは本堂の呼び名で、正式なお寺の名称ではないが、いまではその名で有名である。

 金戒光明寺と同じように、美しい三重の塔がある。本堂や境内は拝観が自由だ。残念ながら、時間の都合でImg_7927、庭園は拝観できなかったが、充分、美しい紅葉は堪能できた。 京都の紅葉は、比較的小さい。残念ながら、今年は高温のせいで、色づきはよくない。今日もかなり温かいが、曇り空ということもあって、光のさし方が悪かったは残念ながら、それでもなかなか圧巻であった。

  まあ、ここはゴャチゴチャ言うのはやめて、稚拙な小生の写真だが、京都の紅葉をわずかばかりお楽しみください。

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金戒光明寺

Img_7850_2  毎年、春は桜、秋は紅葉の京都を、家族で楽しむことしている。たとえば、昨年なら、永観堂→http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-5056.html

 今年も母のリクエストでImg_6549くろ谷の金戒(きんかい)光明寺へ。ただし、ここはライトアップはない。お昼をすぎてから、大人3名だけで少し足を延ばした。

 ここは、法然上人ゆかりの浄土宗の大本山で、800年大遠忌にちなんで、方丈や庭園などを特別拝観をされていた。もちろImg_7912ん、この地は、親鸞聖人もゆかりがあるので、真宗の岡崎別院ともつながっている。

 15歳で比叡山に登られた法然上人が、承安5年(1175年)43歳の時に、専修念仏を広めるために、Img_7878_2山頂の石の上でお念仏をされると、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから この地に草庵を結ばれることとなる。そして、比叡山の黒谷をくださり、ここに草庵を結ばれたのが、浄土宗最初の寺院のはじまりだ。だから、「紫雲山 くろ谷」 金戒光Img_7852_2明寺と呼ばれるのである。法然上人は、智慧の法然房と称される、当代随一の方であった。だから、智慧の働きである光明との縁が深くて、親鸞聖人もその意味内容の和讃を残されている。Img_7874

 方丈の入り口の立派な松は、熊谷直実が、平敦盛を討ち取ったが、世の無常を感じて、法然上人に帰依するために、この地を訪れられたときに、鎧をかけた松だという。真偽はともかく、おいわれも尊い立派な松だった。

 御影堂には、法然上人75歳の御坐像がおまつりされていた。浄土真宗と違って、阿弥陀堂の阿弥陀様も坐像だった。

Img_6570 さて、ここの山門の勅額には、「浄土真宗最初門」という後小松天皇の宸翰が掲げられている(いまは写真不可だった)。この「浄土真宗」の文字をめぐって、江戸時代には、浄土宗と、その当時「一向宗」「門徒宗」と呼ばれていた現在の「浄土真宗」と一悶着おこるのだが、あくまで「セクト」としての本家争いのようなもの。法然上人や親鸞聖人は、泥凡夫が南無阿弥陀仏の念仏一つで、最高の仏に成る教え、もしくとはその生きた私へのお働きかけを浄土真宗と名付ずにはおられなかったのでImg_6593あるから、ここでの世俗の政治的な意図での宗名争いとは、まったくの別物だ。たまたま、山門が修復中で、山門内の宝物と合わせて、この勅額もごく間近で拝見させてもらえて、ッキーだった。

 また、三門に安置される釈迦三尊や十六羅像も間近で拝観できた。ただ「アレ?」と思ったのは、わが胸を開いたら、その胸に釈尊がおられる羅漢像は、釈尊の実子、ラゴラ尊者だとずっと思っていたが、ここImg_6576ではラゴラさんがその後ろで、別の方の表札があったのは、ちょっと不思議なか感じがした。

 幕末には、京都守護職会津藩一千名の本陣にもなったので、松平容保と新撰組にもゆかりの部屋があったり、会津藩の墓所があるのも、また江戸幕府と浄土宗とのつながりのゆえであろう。さらに、今年の大河ドラマ(一度も観たことはないが)の「江」(ごう)の墓所などもあったが、少しまえなら見向きもされないだろうImg_6551

 お庭は回遊式の新しい庭園で、法然上人の生涯を、幼少期、比叡山期、浄土宗開宗に分けて石が置かれていたが……。

 さて、重文の三重の塔の登り口に、五劫思惟の阿弥陀様がおられた。まるでお釜かぶっておられるようなユーモラスなお姿で、Img_6574_2この像からは、緊迫感というか、真摯さはあまり感じられない。隣に「江」の墓があるので、皆さん参詣されるが、誰も阿弥陀様の前は素通りで、目に留めらるか方は誰もなかった。

 いろいろと見どころもあるのだが、真如堂と合わせて、善き知識を求めておられた伊藤康善師の御旧跡の地でもある。Img_6578詳しくは、『仏敵』の第1章にある。「浄土真宗最初門」のことにも触れておられる。だから華光会の聞法旅行でも、『仏敵』の旅の時に、お尋ねしている。

 最後に、父が一言。法然上人が開かれた念仏道場なのに、誰も念仏を称えてお参りしている方はおられなっかたった。まあ、ほとんどが観光客でしょうからね。 

Img_7896 11月も終わりだというのに、穏やかだ。父もまだ元気だったので、一千体を超える広大な墓所を、三重の塔から、会津藩の墓所を通って、隣の真如堂まで歩くことにした。

 途中の紅葉もまた見事。

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広島支部法座

 華光大会が終わって、最初の支部法座は広島。

 12月はM先生なので、今年最後の広島法座となる。

 ご法話は、大会で味わった「唯除のこころ」から派生して、『子どもの聖典』にある、内省の世界「私-ご恩-仏様(地獄)」の三角形の図。唯徐されるのは、五逆罪と、謗法罪である。つまりは、大恩あるもののご恩をご恩とも知らずに、謗り、殺していく私の無漸無愧の姿がある。つまりは、ご恩と罪悪とは背中合わせにあるのだ。では、なぜ、仏様(地獄)なかのか、なぜ、仏様がいちばん底にあるのか。そもそも、如来様ご恩とは何なのかを、皆さんと味わった。
 「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く…」の三帰依文を取り上げる。いつもご法話で触れさせてもらっているが、ご文そのものを取り上げるのは初めてかもしれない。。いろいろ、いろいろ、ほんとうにいろいろとあるけれど、突き詰めてみると、「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く…」のご恩徳と、その親の大恩に背き、謗り通しの私を聞かせてもらうことが、真宗のご聴聞ではないのか。

 下るはずのない頭を垂れて、聞かせてもらうのである。

 

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願寿寺報恩講法座

Img_6535  華光大会が終わったばかりだが、兵庫県山崎町の寺院布教に出かけた。もともと、宍粟組(そ)の集い、連研やお待ち受け法要などの会所(会場)で何度かお邪魔していたところだ。報恩講は、曜日ではなく、日時で決まっているのだが、23日が華光大会と重なってしまう。それで、ここ2年は、1週間後にある永代経法要のご縁をいただいていた。それが、今年は、華光大会が早かったので、報恩講法座のご縁に遇えた。 Img_6532

  ここのご住職とは、不思議なご因縁がある。もともと35年前に、大学の宗教教育部から、華光日校に派遣されて、同級生だった姉と、日曜学校を担当されていた。その時は、ぼくはまだ中学1年生の生徒だった。それからご縁があって、ぼくがお邪魔することになるのだが、別に日校に来たくださっていたことは、後になってわかった。Img_6543そして、今度は、実践真宗学科の大学院に通う当寺院のお嬢さんと、博士課程の連れ合いが、バークレーの交換留学生として、来年9月からの1年間の米国留学にすることになったのである。合格は2名だけというのだから、これもまた奇しきご因縁がひとつ増えた。子供のことが心配なので、知り合いがいるというだけでも、ぼくも安心できる。

 報恩講のご縁である。お斎の接待があったり、Img_6510コーラスがあったりもするが、2日間で、4座のご法縁。750回忌大遠忌の年だ。親鸞様のご恩徳に触れないわけにはいけない。それで、初日は、恩についてと、聖人の流罪の意義についてご法話した。

 夜座は、法話を1時間の一座にして、残りは車座になった座談会にすることになった。さすがに法話が終わると帰宅される方も多かImg_6526ったが、残った方は、それなりによく聞いておられたり、問題をもっておられる方だった。半数が、出勤された法中のご住職と大学院の学生さん、残り半分が檀家さんだ。皆さんに法話の感想を一言ずつお聞きする。びっくりしたのは、お寺さんよりも、檀家さんの方が、法話の内容に触れた一言をくださったことだ。もっとも苦戦していたのが、実践真宗学の学生さんたちだ。一Img_6529般の寺院育ちの彼らには、こんな機会はまずないだろうと思って、いい実践法座の場だと設定したのであるが、法話の感想を尋ねられて明かに困惑している。意見や発表をするのならともかく、その場で感想を分かち合うことは、慣れていないものには難しいようだ。表面的には、話す力や発言力が問われているようで、実はそうではない。いま、何を聞かせてもらったかの、聞く力が問われているのであImg_6542る。彼らは、実践真宗学という新しい分野の大学院生たちなので、いまの研究分野を尋ねると、環境問題とか、ビハーラ、海外布教に過疎地域のコミニティーの活性化と、現在的な真宗が抱えているテーマを意欲的な語ってくれた。また勤行や法話の勉強もされている。しかしである。いちばん肝心要のことが抜けてはいないのか。実践真宗学というのなら、まずいちばんに、わが信や如何にという、自身の求道、聞法こそが、実践の実践たる所以ではないのか。法座という教化体制と、安心という信心の両輪が、真宗の拡がりの原動力だった。はやりの社会問題に飛びつくだけでなく、もう一度その原点に戻って、同行学を行い、現代的に解明していくことが、実践的な真宗の使命だと、ぼくは思っている。その意味では、実践的で、主観的な聞法学や求道学こそが、もっとも重要な分野なのであり、そのことを担っている一番手が、華光の集いだと自負しているのである。せいぜい手弁当をもって、華光に聞法にくるのが、いちばんの実践なのになー。だって、生きた人間を相手にしているところだもの。

 座談会のあと、深夜まで続いた懇親会で、僧侶の皆さんと一杯飲みながら、そんなことを語り合い、これからは、もっとワクワク感のある、活気のある企画を共にやって行きましょうと語り合った。どこまで実現するかはともかく、小さなことでもできる事をやっていきたいものだ。

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御所の秋

 大会が終わって、事務作業。

Img_2804 6年に一度の役員改選があったので、重任だが、代表役員の登記のために、書類を揃えて司法書士の事務所に向かう。自転車で、柳ノ馬場通りを京都御所のある丸太町まで北へあがる。

 御池通をすぎたところにある御池中学に、親鸞Img_6509聖人の終焉の地を示す石碑がある。こちらはお東の遺跡である。お西は、山の内の角の御坊にある。以前は、もっとひっそりと奥まって分かりづらかったが、中学校の改築以降、石碑が前面に出ていて分かりやすくなった。終焉の地に話題は、以前にも触れたことがあるので、以下を参照ください。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_594e.html

 そこから少し北にあがったあたりに、こんな建物があった。京都と言えば、古い神社、寺院、つまり社寺仏閣と決まっているが、古い教会も多いようだ。異国情緒の趣がある建物は、京都ハリステス正教会。正教会というと、ギリシアやロシアを連想するが、日本にも一定Img_6500の信者おられる。京都のこの教会は、日本でも最古の木造教会だそうだが、やりはこれも大戦の戦火から守られたので、いまも現存しているのである。

 お目当ての司法書士の事務所は、すぐそこ。ちょうど京都地裁の横にある。手続きの段階で、なんともImg_6507、かっこの悪いポカをしてでかしていることがわかった。なんだー。そうなのかである。まあ、それで、早々に事務所を後にして、京都御所を散策して帰ることにした。

 一昨日には、大人気のプータン国王夫妻の訪問もあって、たいImg_6503へんな警護だったようだが、仙洞御所周辺も、今日はのんびりしたものである。

 正確には、市民の公園になっている京都御苑である。有名な蛤御門ではないのだが、この堺町御門も、長州藩が警護し、八、一八の政変で破れて、七卿の都Img_6502落ちに連なる歴史の舞台にもなった場所だ

 高温だったこともあって、紅葉はもう少し先だ。

 どうやら今年は、色づきがいま一つのようだ。

 ほんの少し散策して、写真を撮って、次の目的地に向かった。

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華光大会終わる

 3日間の華光大会が終わった。

Img_6496 今年は、連休がなくて金曜日からのスタート。それでもかなりの参加者数 が、土曜日、日曜日に集中して、土曜日の昼間は道場に入りきれず、宿泊をお断りした方も多かったが、実に多くの方がお参りくださった。

 大会中は、法座だけでなく、会議や反省会もあって、忙しい。総会もあるので、事前準備もたいへんだが、もう少し効率よく会議ができないかと、このあたりは工夫が必要だ。

 プライベートではいろいろと困難な状況だが、この虚仮不実の世の中にあって、ますますご本願の尊さが光輝いてくることが、有り難い。私が求める幸せは「おれが」「おれが」の欲望そのもの。如来様が回向くださると真実は、そんな世を超えた、まさに超世の悲願であって、まったくスケールも、レベルも違うものだと、改めて実感させれらている。だから、限りある私の方からは絶対に届かないのである。真実の如来様からの一方的なお働きによってしか遇うことのない世界が、ここにあるのだ。そのことを、喜べる身にならせてもらった幸せに、お念仏させていただくしかない。

 法話は、唯除のこころをいただいた。つまりは私は轉倒(てんどう)しているのである。五逆にしても、謗法罪にしても、大恩なるものを大恩あるとも知らずに、逆らい、謗り続けている。いや、逆らっているとも、謗っているとも知らないのである。この「逆」の字がありがたい。逆らうのであり、そして逆転しているのである。『子供の聖典』にある、内省の世界の三角形の図だ。お山の大将の私は、うぬぼれて「おれが」「おれが」で、どんどん上へ上へと登っていく。そのためには、多くのいのちを犠牲にしている。食べ物であり、着る物となり、父となり、母となって、すべてが私を支えてくださる大恩あるものなのだ。そして、そのいちばんのどん底には、仏様がおられる。しかも、その如来様は、私が上に上にとあがるために作りと作った罪業の世界である私の地獄の中で、私を呼びつづけ、叫び、待ってくださっているのだ。
 キリスト教圏の外国の方が、この図を見て、「これは反対ではないか。仏(GOD=神としてもいいが)は、上にあって、私たちが下にいるのだ」と言われたと聞いた。まさに、「天にましますわれらが父」なのである。しかし、そうではない。それが逆転している姿だ。私の聞法は、上へ上へと如来様を求めている。自分の足元がお留守にして、人は批判しても、けっして頭を垂れて聞くことはないのである。だから、絶対に救われないのだ。実は、お聞かせに預かることは、絶対に救われない、除外された自分に涙させられることである。唯除とは、仮の方便ではなく、実除なのである。そう、絶対に救われない私、地獄一定の私を、私の地獄の中で、待って待ってくださっているのである。

 またまたこれがほんとうの意味での、わたしたちの常識を逆転した、超世の真実の世界なのである。

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学習発表会

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 子どもの「学習発表会」に出かける。

 ここ数日は冷え込んできたが、山もまだ紅葉には少し早いようだ。

 ぼくの子供の時、「学芸会」から、「学習発表会」という行事に変わった。それが、またこのごろは「学芸会」に戻っているが、この小学校は、「学習発表会」である。

Img_7799 平日なので、保護者もわりと少なめ。練習時間などからみても、運動会の方に力が入っているのがわかった。

 2年生は、学習の発表と合奏やコースラをImg_7790交えて、6年生の上の子は、修学旅行に出かけた広島での平和学習などの取り組みを発表や寸劇、クイズにして伝えてくれた。

 わが子が紹介してくれたのは、原爆のよるおこり地蔵の由来。発表と寸劇で。彼女は、原爆投下前の笑うお地蔵さんの役。ほかにも、秘密裏に毒ガス製造が行なわれていた大久野島での体験や、原爆の資料館や語り部の話、ほかにも、地元で玉砕した戦地から生き残った方の体験談なども交えて、平和とは何かを伝えてくれた。平和とは、何も戦争の有無だけはない日々の努力の結実であることを、子どもたちから教えられる気がした。

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映画と和泉式部の墓

  人生でなにがおころうと、あいらかわずのシネマディクトである。

 さすがに毎日とはいかないが、2日に1度は映画館で映画をみている計算だ。1度に2本見ることにも多いので、通う回数はもう少し少なくなるが、一ケ月に10日は宿泊や出張法座があることを差し引くとかなりの頻度である。

 当然、映画の日や、ネット割引、会員などを利用して、少しでも安く見ることに腐心している。だから、基本的に900円か1000円で、しかも鑑賞ポイントがつく映画館に通う。

 14日は、TOHO系の映画館が1000円になる。だから、昨日は、メジャーな映画を2本観た。

  まずは、 ブラピが主演した『マネー・ボール』、オークランド・アスレチックスのGM、ビリー・ビーンによる弱小貧乏球団が、カンと経験だよりのスカウトから、革新的なデータ重視のマネジメントによる球団の意識改革の格闘を描く伝記ドラマ。日本では、なかなかGM制度が定着しないが、編成と、采配をきっちり分業するアメリカらしい。監督役がフィリップ・シーモア・ホフマンだったのが驚いた。ちょうど、イチロー旋風のア・リーグ、西地区なので、相手方にもけっこう知っているチームや選手が出てきたので、その点でも馴染みやすいが、権利の都合なのか、西地区のカードはなぜか少なく、イチローも、ブラピが眺めるテレビ画面に一瞬映るだけだ。ただし、メンツのわりに、淡々と処理されて、盛り上がりにかける気がした。

  もう一本は、三谷幸喜監督の『ステキな金縛り』。こちらは文句なくて楽しいコメディーで、飽きることはない。ただしー、別に映画館に行かなくても、DVDでも、テレビ放映でも十分に楽しめる種類のもの。

Img_6469 火曜日で、男性サービス・デーを設けてる映画館に寄った。京都で、男性割引があるのはここだけだ。新京極と寺町の間にある蛸薬師の駐輪場に自転車を留めた。目の前は浄土宗西山深草派の総本山、誓願寺だ。

 シネコンやアート系のきれいな映画館が増える中で、ここはイスも狭くて古い。よく言えば、レトロな雰囲気だ。

 低予算のインデーィズ系ながら、アカデミーの作品賞、主演女優賞、助演男優賞などの4部門にノミネートされた『ウィンターズ・ボーン』を見る。古きよき時代、アメリカ東部の田舎町というと、ステレオタイプ的に称讃される雰囲気あるけれど、本作は、アメリカの田舎の恐ろしい因習と、隠された暗部、そして救いようのない貧しさが前面に出ていて、トーンも、ストーリーも、そして荒れ果てた寂寞とした風景描写も、どれをとっても寒々しい気持ちにさせられる1本。しかも、暗示された結末も、寒々しくも恐ろしいものだけれども、逆に、どんな状況にあっても、人は前を向いて歩いていくしかないというメッセージを感じなくもないかもね。カントリーの原型になった素朴な音楽はステキです。映画の題は、日本語にするとけっして伝わりません。ボーンは生まれではなくて、Winter's Bone。

Img_6468  劇場の並びに誠心院というお寺の墓所がある。門が開いていて、正面に立派な墓石がある。覗くと、和泉式部の墓だという。50年京都に住んでいたのに、気付かなかったなー。そういえば、誓願寺がすぐそこにあるのも、ゆかりがあるからだろうか。

 久しぶりに映画のことを書いたが、最後は少し脱線した。

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真宗カウンセリング研究会 創立50周年の集い

Img_6475 真宗カウンセリング研究会の「創立50周年の集い」が終わった。

 40周年には、西光先生が存命で、2日間に渡り、2つの企画をおこなった。メーンは2日目昼からの信楽峻麿先生と増井武士先生の対談だった。コーディネーターをし、案内文の作製、総合進行と司会に、会場予約等々、皆さんに助けられたとはいえ、ひとりで忙しく動いた。参加者も120名を超えていた。ちょうど連れ合いが骨折した年で、まだ1歳だった上の子を背負って、会場の予約に行ったことが懐かしい。

 それから10年。現代表のM先生のご意向もあって、今回は、現会員、旧会員を中心にした会員の交流会を企画して、特に外部講師の講演や対談など、華やかな企画はなかった。50周年記念なので盛大にとの声も上がったが、結局、参加者も前回の1/4程度の30名と身の丈にあったアットホームな企画となった。

 それでも、全員が円座を組み、研究会との関わり、50年の抱負、または現況報告や関心などについて一言ずつ発言してもらうだけで、半分の時間を要した。研究会を巣立ち、または、ここに基地としながら、さまざまに、その精神が発展し、広がるさまを目の当たりにし、頼もしく感じさせられた。

 研究会は、1961年12月8日、つまり成道会の日に誕生した。ぼくはまだこの世に生を受けていない。どの生を彷徨っていたのか。地獄界か、中有界と考えていたら、なんのことはない、母の胎内に宿っていたのだ。その創設に父も参加している。ということは、母のお腹の中で研究会の誕生のことを間違いなく聞いていたのであろう。そう考えると、少し不思議な気がした。

  実際は、大学入学と同時に、研修会に参加した。18歳の5月だった。伏見の法然上人ゆかりの浄土宗の寺が会場だった。龍谷大学の真宗学科に入学して、カウンセリングを学ぶというのが、ぼくの進むべき既製路線だったので、満を持して参加したのだ。しかも参加者の半数が華光会で顔見知りの方だった。しかし、その内容に、正直、失望して、M先生に気をつかってもらいながらも、結局、半分にならないうちに途中で止めてしまった。何が不満だったかというと、要するに、法座の座談会と比べたり、十分に聞きもできないので、自分に過信したり、それでいて、その不満も明確なれのではなく、要は、自分自身が未熟なだけだったのである。未熟なものほど、自分の愚かさは棚上げして(というよりわからないのだなー)、会や集いを断片的にとられて批判するしかできないのである。

 要するに、この時は、時機をえていなかったのだ。結局、大学の4年間は、カウンセリングの集いに参加することはなかった。

 それが、「詰まらぬと言うは小さな知恵袋」という西光先生の言葉に触発されて、もう1度、研修会に参加する気になったのが、大学院に入学した春のことだった。会場は、今熊野の学生研修センターという、冬にはすきま風が入る古びた木造の建物だった。この時に、今年7月に亡くなった、Iさんからミニカウンセリングを教えいただいた。そこから、龍大に開設されたばかりのカウンセリング課程の一期生となって、その面白さにのめりこむことで、今日まで続いている。ぼくより古い会員はたくさんおられるが、現代も継続している会員となると、いつのまにかM先生の次ぐ、古い一員になっていた。

  真カ研は、ある意味、まったく変わることのない雰囲気を保ちながら、50年を経てきた。それは、最大の長所でもあり、最大の短所でもあるのだが、その雰囲気こそが真カ研なのだろう。その大半は、西光先生の引力のようなものがあったが、先生亡きあとも7年の月日がたった。いろいろな人たちに支えながら、また知らず知らずに影響を受け、また影響を与え合いあいながら、今後も、身の丈にあった歩み続けていくことになるのだろう。

 今回は、2人の方の研究・実践報告があった。図らずも、「真宗カウンセリング」もしくは、DPAとか、D_pcaと呼ばれる、西光先生が提唱された成果の発展と可能性に関する報告であった。特に、前者の方の発表には、気づきや刺激を受けたことが多々あった。

  そして、僕自身も、そろそろ自分の教えていただいこと、学んだきたところ、そして自分のやりたいことを前面にうち出していく時期が来たと思った。大きなことはできなくてもいい、自分の出来る範囲でいいのだ。その前に踏み出す力をいただいた気がした。

 そう気付かされたいま、ぼくは、すでに歩み出しているのであろう。

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11月の華光誌輪読法座

  11月の華光誌輪読法座

  M先生の誌上法話、「聞き心が払われる」、妙好人 物種吉兵衛さんのエピーソードを軸に進む。

2回に分けて読むので、今回はその前半戦。

参加者の印象に強く残った箇所が、特に二カ所。

 まずは、「南無阿弥陀仏がとどろきわたる」の章。

 阿弥陀様の喚声を聞こうとする心が絶滅した。聞こうとする私は死んだ。と同時に、御喚声が全顕したのです。もはや私が聞くのではない。「自力の心を捨てたら聞く物柄がない」と吉兵衛は言います(前掲書、一四九頁)。「聞く物柄」とは聞く主体のことです。聞く「私」がいなくなる。もはや私が聞くのではない。誰が聞くのでもない。ただ御喚声、南無阿弥陀仏だけが今ここにとどろきわたっている。「それで聞きぞこないがないノヤ」と吉兵衛は断定します(同所)。このようなことは体験がないと言えることではありません。
 阿弥陀様のお喚声を、私の心がボールをキャッチするようにして受けるのではないのです。それではこちらの心は何ら変化していません。相変わらず「これでは死んでいけませぬ」のままでしょう。そうではなく、阿弥陀様のお喚声に、心がいわば刺し貫かれ、自力が殺されたのです。

 まさに、この身にかけて聞いた、出会ってしまったものでないと味わえないこころ。まあ、普通は、阿弥陀様とのキャッチボール程度に理解している。

 もう一つは、「獲信したいのあさましさ」の章。普通は、獲信したいと願うことは尊いことであって、決して、あさましさとは考えていないはずだ。それが、

 「これで地獄に落ちずに済むという結構な身になりたい。後生に大手振って出ていけるという絶対の幸福を獲得したい」。こういう欲の塊がほかならぬこの私なのです。獲信したって「地獄には落ちとうないよ、安らかに死んでいきたいよー」という煩悩はなくなりませんよ。だって獲信は覚りを開くことじゃないんだからね。獲信したって自分の指はどこまでいっても自分の指、火はどこまでいっても火なのであって、自分にとって火はあくまでも他者です。存在の真相は自他不二(これが覚りの内容)だからといって、火もまた自己なりとして猛火の中に飛び込んでなど行けません。獲信しても火は怖いのです。火が怖いということは地獄が怖いということでしょう。

 そして、その次ぎのところで、

 だから地獄には落ちとうないの心は煩悩。この「地獄には落ちとうない」の心が滅んで、「極楽往生百%間違いなし」と確信する心が生まれることが獲信なのではないのです。

 普通は、そうじゃないでしょう。極楽に100%確信することが、信心獲得なんです。そう味わい、口にする方にぼくは多く出会った。地獄行きが極楽行きに変わることを求めている、またはそうなることが信心だと喜んでいる。でも、M先生は、そうではとないと断定されている。では、どうなかのか。

そうではなくて、「ああ!自分はほんっと地獄に落ちとうないの煩悩のカタマリでしかないんだなー、地獄の火から逃れるためなら善知識を突き飛ばして仏さまの頭を踏みつけてでも蓮台に手をかけるようなやつなんだなー」と、この真実の自己の姿が、ハッキリと知らされる。そんな奴に往生成仏する資格がありますか。そりゃ助かりたいですが、助かる資格があるのか。
 資格なし。本当にそう知れたなら、「はよ獲信させてくれ」の心は滅びるのです。善知識を突き飛ばしてでも、仏さまの頭を踏みつけてでも、地獄から這い上がりたい。そうした私の本当の姿に、ずっと泣いて寄り添って下さっているのが南無阿弥陀仏の心じゃないですか。「いくら頭踏みつけてもエエから助かってくれ!いや助けさせてくれ!どうか南無阿弥陀仏称えてくれ」とね。願われ、頼まれ、お願いされている。称えるだけじゃないか。

 資格ない。結局、絶対に救われない自己に出会わせていただくわけです。これは理屈で聞いていても超えらない関門です。こんなところまで、徹底してお聞かせに預かれるところは、そうそうはないと断言していいと思いますね。

 この続きは、次回12月に続く。来月の輪読法座は、

 12月25日(日)昼1時30分~ 年末押し迫っていますが、どうぞお参りください。

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人生の転機

 50代を前に、人生の大きな転機を迎えることになった。

ほんとうに、49歳にし、四苦八苦の一年になった。

Img_6474 基本的には、ぼくの人生設計になかったことだった。 

 正式には少しだけ先だが、今日は、いわば正定聚不退の位につく公式なお約束。

 実感はあるようで、ないようImg_6473_2だけれど、とにかく決まった。

 琵琶湖畔のホテルで、お茶を飲みながら談笑。

 カフェラテのアートの模様が、妙に可愛かったな。

  さて、さて、さて、この先、何が起こるやら。

 楽しみでもあり、不安でもあるけど。

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11月の伝道研究会

 「真宗の開宗」に入って、本典(教行信証)の組織から輪読。簡潔に述べると、

 『教行信証』が、(能信の機)(所信の法)・因(行信)(証)・(能詮の教)(所詮の義)・能帰(教行信証)所帰(真仏・真土)・是(顕是の巻=教行信証真仏土)(簡非の巻=化身土)を相対させて、結果、何を顕そうとされたのかというと、その焦点は、「顕浄土真実」の一語につきる。それを表題として『顕浄土真実教行証文類』と名付けられたことからも窺い知れる。結局、これは人間としての最も真実な生き方、最終的に帰依すべきもるこそは、「浄土真実」にありとみられた、宗祖の宗教体験の叫びともいってよいもので、これを「浄土真宗」と名付けれられた。

 というところから、浄土真宗の宗名の伝承と、その真意へと展開していった。

 宗学の専門用語も多かったが、少し解説なり、質疑なり加えて進んでいった。難しいなり、飽きもせずに、皆さん、付いてきてくださった。

 次回は、12月7日(水)夜7時30分~10時

 六三法門が終われば、真宗の教相判釈に入る。

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訃報

 先の記事に触れたが、日高支部法座では、法座の合間に、月忌参りをしている。同人宅が密集しているの出来ることなのであるが、一つは、高齢になって、お参りが難しい方が増えたからだ。

 だいたい、希望者が決まって来ているので、コースも時間もだいたい同じ。今回は、お留守(実はおられたが、若い方が不在で聞こえなかった)だったので、一人で上がって、勤行をすませた。ご法礼はあったが、勝手にもっていくわけにもいかず、別の家を回って再び寄ると在宅中。今度は、一緒に、勤行。次ぎのお宅は、独り暮らしでまだお留守。ディ・ケアーの日で、送迎の都合でもう少しかかりそう。

 その間で、九月に一人息子さんが急死された古老宅へ。最近、四十九日が済んだばかりだという。ふとしたきっかけで病気が発見されて3ヶ月、まだ50代半ばにして亡くなった。高齢の母親に配慮して病気も知らせなかった。将来を嘱望された東京の有名私学の大学教授に就任れたばかり。お子さんはうちの子と同じ学年だ。さぞかし無念であったろう。子供大会にも参加され、大人になってから聞法されたこともあるのだが、強信な母親のお念仏のお心は、どこまで通じていたのだろうか。その一点が、いちばんの心残りだ。

 初日の昼に5軒、翌朝は法座までに1軒、法座の後で、2軒のお参りした。

 最後の1軒を除くと、全員、旦那さんを亡くされた高齢の方であり、その半数が、息子さんを亡くされている。

 そのうちの1軒。独り暮らしで、いつも大歓迎くださる。大事故や体調不良の時もあって、不在の時もあったが、今日はお元気。あっちこっちに故障を抱えていて、老苦、病苦の身を嘆きつつ、お念仏に帰っていかれる。少し時間をとって、近況をお聞きする。立派な仏壇に託された思いを聞く。帰り際、両手を取って、「勿体ないです。南無阿弥陀仏」とお別れした。「来年3月の時には、また寄せてもらいますね」といった。

 そしてその2日後。

 「Mさんが亡くなりました」との訃報が届いて、耳を疑う。

 あっちこっこち痛いと言いながらも、お元気で迎えてくださったのに。

 「次ぎは、3月ですね」という約束は、所詮、この世の世迷い言だった。

 老婆の身をかけて、「次はないぞ」との無常の催促に、念仏申すのみ。

 弔電に、ご家族の方に、ぜひ仏法聴聞をとお願いした。

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一周忌と五十回忌と、日高支部法座

 日程の都合で、日高支部法座の前に、京都の同人宅の一周忌法座へ。

 親戚の方に、妙な遠慮をせずに、お念仏を進めようという家人の姿勢がうれしかった。別に確固たる信仰をもっている方は稀で、ほとんどが無宗教という名の先祖供養の目的で手を合わせておられることが多い。どうせなら、お念仏の意味をお伝えして、共に声に出して称名念仏申す機会をいただくのである。

 法衣姿のまま、豊岡市の日高に向かう。昼食を挟んで3時間ほどで到着。夜座までの間、偈文で、月忌のお参り。初日に5軒、翌日、帰宅するまでに3軒の8軒をお参り。法座は、夜と、朝の2座のみ。高齢や病気の方が増えて、夜の参詣者が少なくなったが、それでも、亡くなった故人をご縁にして、初参りの方もあった。なるべく平易な法話に勤めて、三毒段をの現代語訳で、お経の意味、大悲の仏様の目に移った私の実相をお聞かせにあずかる。法事も、勤行も、死者や先祖の供養ではなく、生きている私を指し示す教えであり、私がお聞かせに預かることを強調したが、反応はそれなりにあった。

 翌朝も、1軒お参りをすませて、会場移しての法座。9月に当家の母親の50回忌が勤まったが、父が勤行できなかったようなので、代わりに正信念仏偈を勤行した。法話は、三毒段の続きで、最後は、大悲のお心に触れてもらった。

 三毒段に触れなくても、ここでは、老苦、病苦、愛別離苦の四苦八苦の生きたご説法にあえる。訪問して、勤行をして、近況を語り合うだけだが、短い時間にも、心が通じる気がして、ともに人生の苦を通して念仏を喜びあえるのが尊かった。

 支部法座では珍らしいことだか、二日間、法衣姿でとおした。これもまた身が引き締まってよかった。

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長島温泉

Img_7724_2 恒例になった家族での一泊旅行。

 今年は、長島温泉に泊まって、翌日、子供たちと遊園地でタップリ遊んで、帰路に、名古屋の姉夫婦の経営する浅野屋に立ち寄る計画を立てた。新名神が開通して以来、三重や名古屋方面へのアクセスが便利になった。Img_7732

 長島温泉の宿を選んだら、遊園地、温泉(露天風呂)、そしてなばなの里の入場料が無料セットになっていた。

 なばなは、冬のイルミネーションで有名で、楽しみにしていた。ところが、今年のライトアップは11月3日からImg_7753スタートするという。今日は、2日。えー、残念ながら、1日早すぎたようだ。

 それでも、夕食までの時間に立ちImg_7744寄って、園内や温室を散策することにしていた。カフェでゆっくりお茶を飲んでいたら、突然、部屋の電気が落ちて、外からファンファレーが鳴り響いたと思うと、一斉にライトアップが始まった。あれあれ、明日からじゃないの? 

Img_6429 なんでも、明日からの点灯にむけた報道関係社などを招待したプレ開会式があったという。テスト点灯の意味もこめられている。一度は、諦めていただけに、まったくラッキー。

 それにしても、見事なイルミネーションだ。紅葉の時もまたきれいだろ。ここで、上の子が素朴な疑問。Img_6443「電気代かかってるなー。節電しなくていいの?」 確かに。でも、その点に関しては、いの一番で、考慮はされているようでしたが…。 温室には行けなかったけれど、これはこれで満足。なにより、温かい夜で快適だった。

Img_6449_2 宿の方は、食事も、温泉もけっこうよかった。子供たちはコインゲームがタップリ出来て、こちらも満足。

 しかも、ふたりは翌朝はスパーライドImg_6425へ。ホテルから直接入場できるので便利だ。絶叫系マシンは、これからだけど、上の子はいくらか乗れる。下の子は、キッズランドのユル目の乗り物で大、大満足。

 ぼくも、この子と一緒に乗るぐらいがちょうどよいけれど、たまImg_6447に上の子とつきあって、かなりフラフラの、ヘロヘロに。最後は、おじいちゃん、おばあちゃんも、一緒に大観覧車へ。でも、これが降りる時に、かなりハラハラ。危なく、もう1周回るはめに。いちばん、ドキドキしたかもー。

 たっぷり遊んで、かなりお疲れだったけれど、このあと名古屋の姉の店に向かった。

 こうして御馳走を食べ、温泉につかり、たっぷり遊んだ楽しい休日は終わった。Img_7749_3

 

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