11月の華光誌輪読法座
11月の華光誌輪読法座
M先生の誌上法話、「聞き心が払われる」、妙好人 物種吉兵衛さんのエピーソードを軸に進む。
2回に分けて読むので、今回はその前半戦。
参加者の印象に強く残った箇所が、特に二カ所。
まずは、「南無阿弥陀仏がとどろきわたる」の章。
阿弥陀様の喚声を聞こうとする心が絶滅した。聞こうとする私は死んだ。と同時に、御喚声が全顕したのです。もはや私が聞くのではない。「自力の心を捨てたら聞く物柄がない」と吉兵衛は言います(前掲書、一四九頁)。「聞く物柄」とは聞く主体のことです。聞く「私」がいなくなる。もはや私が聞くのではない。誰が聞くのでもない。ただ御喚声、南無阿弥陀仏だけが今ここにとどろきわたっている。「それで聞きぞこないがないノヤ」と吉兵衛は断定します(同所)。このようなことは体験がないと言えることではありません。
阿弥陀様のお喚声を、私の心がボールをキャッチするようにして受けるのではないのです。それではこちらの心は何ら変化していません。相変わらず「これでは死んでいけませぬ」のままでしょう。そうではなく、阿弥陀様のお喚声に、心がいわば刺し貫かれ、自力が殺されたのです。
まさに、この身にかけて聞いた、出会ってしまったものでないと味わえないこころ。まあ、普通は、阿弥陀様とのキャッチボール程度に理解している。
もう一つは、「獲信したいのあさましさ」の章。普通は、獲信したいと願うことは尊いことであって、決して、あさましさとは考えていないはずだ。それが、
「これで地獄に落ちずに済むという結構な身になりたい。後生に大手振って出ていけるという絶対の幸福を獲得したい」。こういう欲の塊がほかならぬこの私なのです。獲信したって「地獄には落ちとうないよ、安らかに死んでいきたいよー」という煩悩はなくなりませんよ。だって獲信は覚りを開くことじゃないんだからね。獲信したって自分の指はどこまでいっても自分の指、火はどこまでいっても火なのであって、自分にとって火はあくまでも他者です。存在の真相は自他不二(これが覚りの内容)だからといって、火もまた自己なりとして猛火の中に飛び込んでなど行けません。獲信しても火は怖いのです。火が怖いということは地獄が怖いということでしょう。
そして、その次ぎのところで、
だから地獄には落ちとうないの心は煩悩。この「地獄には落ちとうない」の心が滅んで、「極楽往生百%間違いなし」と確信する心が生まれることが獲信なのではないのです。
普通は、そうじゃないでしょう。極楽に100%確信することが、信心獲得なんです。そう味わい、口にする方にぼくは多く出会った。地獄行きが極楽行きに変わることを求めている、またはそうなることが信心だと喜んでいる。でも、M先生は、そうではとないと断定されている。では、どうなかのか。
そうではなくて、「ああ!自分はほんっと地獄に落ちとうないの煩悩のカタマリでしかないんだなー、地獄の火から逃れるためなら善知識を突き飛ばして仏さまの頭を踏みつけてでも蓮台に手をかけるようなやつなんだなー」と、この真実の自己の姿が、ハッキリと知らされる。そんな奴に往生成仏する資格がありますか。そりゃ助かりたいですが、助かる資格があるのか。
資格なし。本当にそう知れたなら、「はよ獲信させてくれ」の心は滅びるのです。善知識を突き飛ばしてでも、仏さまの頭を踏みつけてでも、地獄から這い上がりたい。そうした私の本当の姿に、ずっと泣いて寄り添って下さっているのが南無阿弥陀仏の心じゃないですか。「いくら頭踏みつけてもエエから助かってくれ!いや助けさせてくれ!どうか南無阿弥陀仏称えてくれ」とね。願われ、頼まれ、お願いされている。称えるだけじゃないか。
資格ない。結局、絶対に救われない自己に出会わせていただくわけです。これは理屈で聞いていても超えらない関門です。こんなところまで、徹底してお聞かせに預かれるところは、そうそうはないと断言していいと思いますね。
この続きは、次回12月に続く。来月の輪読法座は、
12月25日(日)昼1時30分~ 年末押し迫っていますが、どうぞお参りください。
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