広島支部法座~末代無智章~
10月の広島支部法座。寺院布教の都合で、土曜日の午後の開催となった。
誌上法話にも掲載した「末代無智章について」。蓮如様が、真宗安心の要を示された御文章である。教義的なことや聖教は苦手だとか、すぐに忘れてしまうとか、嘆いてばかりいては勿体ない。別に、覚えて記憶して来いでも、勉強して来いとのお示しではない。しかし知らなかったことをひとつでもお教えいただき、お聞かせいただけるのなら、それひとつだでもご法の喜びが広がるのではないか。だから、けっして苦痛したり、嘆いたりしないで、少しでも聞かせてもらったことを、ご法を聞く喜びのタネとして喜びたいものだというところから、ご法話を始めた。
この章は、教義的な問題、自他力の廃立に関わる要点もあるので、第一段(安心を示す)、さらにそこを3章にわけたその第2章の「たのむ機とたすくる法」を中心に、かなり補足もした。「一心一向に、たすけたまへとたのむ」という表現について、誤解されるべき点があるからだ。
五帖目一通『末代無智の章』
⑴第一段-真宗の安心を示す段
⑴-➀ 末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、
〈➀第一節-本願は誰が受けるのか〉
⑴-➁こころをひとつにして、
阿弥陀仏と深くたのみまゐらせて、
さらに余のかたへこころをふらず、
一心一向に仏たすけたまへと申さん 衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、
かならず弥陀如来はすくひましますべし。〈➁第二節-たのむ機とすくう法〉
⑴-➂これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。
〈➂第三節-願意(本願)に帰結する〉
⑵第二段-報謝を示す段
⑵ かくのごとく決定してのうへには
ねてもさめてもいのちのあらかぎりは、
称名念仏すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
浄土真宗の要である「信心正因・称名報恩」が、簡単明確に示される同時に、それが第十八願のお心そのものだというのである。その核心部は、⑴一段目の冒頭➀で本願のお目当てが明示された後、➁の「たのむ機とすくう法」を示されるところである。なかでも、
「こころをひとつにして」、
「阿弥陀仏と深くたのみまゐらせて」
「さらに余のかたへこころをふらず」、
「一心一向に仏たすけたまへと申さん」衆生をば…。
よくよく心してお聞かせに預からねばならないところだ。それに、簡単に流さないで、ひとつひとつを味わっていくなら、けっこうひっかかってくる。こころをひとつにするとはどういうことか、深くたのむとはどうたのむか、また重ねて、余のかたへこころをふらずと示されて、最後に、一心一向に、仏「たすけたまへ」申さんとお示しになっているが、祈願でも、請求でもない、「たすけたまへ」とたのみ申すとは、どういうお心なのであろうか…。
もし、ここだけを素直に読むならば、私の方から、こころをひとつにして、深くたのみ信じて、しかも「たすけたまへ」と、阿弥陀様にたのむという表現に読めてしまうだろう。「たすけたまへ」は、衆生側の請求(せいぐ)でも、希願でもないのだが、江戸時代には、この表現をめぐって本願寺派教団が大騒動になった。そのためか、今では、羹に懲りて膾を冷ますで、いつのまにか、肝心の⑵の「たのむ機」を飛ばしてしまって、
「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし」
と、すくう法だけが強調されて、まったく違和感やひっかかりのない味わいが多くみられるようになったのが、大半ではなかろうか。確かに、この方が耳障りがいい。ただただ本願の手強さを仰いでいくのであって、機の詮索は無用だというのである。極端に言うなら、そのまま安心で、こっちから手出しできない、そのままのお救いになっている。聴聞しようが、しまいが、お慈悲な阿弥陀様なので、死んだらみんな仏にさせてもらう、勿体ない教えですとなってくる。もし、そのままなら、死後にお経をあげてもらうことが廻向となってしまいかねないのである。
でも、ここは、衆生の側からのお願いでもなく、また飛ばして終わるほど軽い問題でもない。蓮如様のお示しにこころを寄せて、しっかりご聴聞をいただかねばならない肝要なところなのだ。
なぜなら、衆生側、私には、一心にも、無疑心にも、深く信じることもできない。みな、これは他力のお働きによっていただくお心であるからだ。祈願でも、請求でもなく、「たすけたまへ」とたのむのもまた同じである。
そこに、「たとひ罪業は深重であっても、必ず救い取ってみせましょう。どうか頼んでおくれ」という阿弥陀様の先手をかけた勅命が、無漸無愧の、無仏法の、真実のかけらのない私の上に、勿体なくも届いてくるので、その真実の大悲のおこころに突き動かれて、「勿体ない。南無阿弥陀仏」、とおまかせし、頼ませてもらわずにおれなくなるのである。たのむ機と、たすける法、ともに他力のお働きであるおこころを、よくよくお聞かせにいただいて、この私、南無阿弥陀仏をたのむ幸せの身にさせてもらってこそ、このご文のお心がいただけるのではなかろうか。
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