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四十九日法要と、入仏式

 平日だったので、夜から、四十九日法要。法要に先駆けて、新しく仏壇を購入されて、南無阿弥陀仏のご本尊を、当家にお迎えする入仏式も行なってきた。

 世間一般では、「お性根入れ(抜き)」とか「お魂入れ(抜き)」とか言われて、たまに「引っ越しをするので、お魂を抜いてください」といった依頼があったりもする。中には、引っ越し業者から「罰が当たるので、お寺さんにたのんでおいてください」といった依頼があったという人もいた。しかし、これは、断じて浄土真宗の作法にはない。人間が読経して、仏像に魂を入れたり、抜いたりするようなことはないのだ。あくまで、わが家に中心に、ご本尊(阿弥陀如来)をお迎えし、その阿弥陀様のお徳を讃える、いわば「慶びの法要」だといっていい。

 もうひとつ、かなり以前のことだが、日曜学校で、お仏壇を作ったことがあった。子供たちがそれぞれの力作で、マイ仏壇を作り、その阿弥陀様に毎日、手を合わせることから、1日が始まり、1日が終わるようにと話した。ところが、文化教室をご縁にしていた保護者から、反発があった。「わが家は、まだ死者が出ていません。それなのに、こんなものを置くのは縁起が悪い、死者が出る」、とたいへんな剣幕で返しにこられたのだ。

 一般の方にとって、お仏壇とは、その家に死者が出て、その方が先祖となり、仏壇に入り、見守ってくださるのだと考えられている。先祖代々で仏壇を引き受けた本家でなければ、仏壇かないのである。だから、仏壇は死者が出た時、位牌をおまつりし、先祖となり、仏となった故人の霊を弔うのであって、その霊を供養するために手を合わせ、読経するというのが、一般の考えなのだろう。

 仏壇やお墓、葬儀や法要に関しては、とにかくお釈迦様の真精神から外れた迷信や俗信が幅を効かせている。もしかすると、浄土真宗以外のご宗派の中には、そう勧められる僧侶もあるのかもしれないが、決して、お釈迦様の教えではないのである。

 予てご相談があったので、名号本尊をお勧めしておいたが、ご本尊は「南無阿弥陀仏」の六字尊号と、両脇には「帰命尽十方無碍光如来」と、「南無不可思議光如来」の十字と、九字お名号様が安置されていた。

 これからは、このご本尊を中心に、手を合わせることから一日が始まり、合掌礼拝で一日終わる。信は荘厳より生ず、といわれるが、ここが我が家、ひいては私の中心になってくださるのである。ご本尊をお迎えし、静かに両手を合わせ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と合掌・礼拝をすることから、この私がお育てをいただく。浄土真宗では、決して、先祖供養のために、こちらから回向し手を合わせるのではないのである。また、当然、作法が違うからとか、何かが欠けているといって、罰を当てたり、不幸をもたらすようなご先祖も、当然、仏様もいらっしゃらない。大悲のお心で、無漸無愧の私に願いをかけ、頼んでくださり、私をお迎えをしてくださる姿を顕してくださっているのである。

 そして、ただ口に南無阿弥陀仏と称えるだけでなく、よくよくその南無阿弥陀仏のおこころ、阿弥陀如来の他力回向のおこころをご聴聞し、そのお心を、私の上に心得えさせていただくことこそが肝要なのである。

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