福山法供養法座
広島支部法座は、広島市か、以前は三原市でも法座が開かれていた。今年になって、岡山駅にも降り立つご縁が生まれたが、今回も通過するだけの福山駅に初めて降り立った。福山駅前の福山城は停車時に眺めるだけだっ
たが、ほんとうに線路を隔てたすぐ側に立っていた。時間の都合で、外から眺めただけだが、次回は、少し散策もしてみたい。
華光同人Sさんのお姉さん宅に向かう。ちょうど1年前に、ご主人を亡くされで、今日が、1周忌法要。浄土真宗のご門徒なので、お手次ぎの寺院の法要がある。しかし、法要のあと、短い世間話のような法話がある以外は、会食で解散というのでは、勿体ない。というわけで、Sさんが、ご兄弟や親類の方にも、なんとかご縁を結んでもらいたい一心で、法要の後の法話会を設けてくださったのだ。それで、初日は、親類の方のみで、2日目のSさんのお友達や地元同人と、いつもの広島支部同人も交えた法座を企画された。
しかしながら、参列の皆さんにとっては、変な話だろう。朝からご法事があり、お墓に参り、会食が終われば、1周忌の法事はすんでいる。それが、その後、別のお坊さんがきて、勤行と法話会があると言われても、関心のない方も多かろう。結局、ぼくが来てから、お帰りになる方もあって、残られたのは、関西からここにお泊まりになる、亡くなったご主人側のご親戚の方が中心となって、なんとなく妙な雰囲気である。それでも、ご一緒にお正信偈をお勤めし、1時間ばかり分かりやすいご法話に勤めたが、どうせなら最後の方は、しっかりとお取り次ぎさせてもらった。その後、大きな反応はなかったが、まあ、これは仕方がない。
むしろメーンは2日目の朝と昼座。20名ほどの参加者の中は、Sさんのお友達や親類、そして久しぶりの元同人の方が半数以上で、常連の支部の方も、ちょっといつもと様子が違う。 2座に渡って大経の「三毒段」を輪読。如来様の大悲の眼でご覧になられた私の哀れな実相である。これが2500年前に説かれたことに驚かされる。年月がたっても、私の迷いの実態-欲と、怒りと、愚かさに支配され真実を求める心すらない迷い私の内面が、見事にあばき出されていく。結局、どれだけ社会や文化が進歩したように見えても、人間の迷いの姿は何も代わっていないということである。
座談になって終了間際に、予想外の展開。もともと当家の喪主であるSさんのお姉さんご縁を願われたことである。Sさんも、お姉さんも、長年、善人になる新興宗教に熱心で、感謝の日暮らしを送っておられた。それが、Sさんが浄土真宗に出会われて、相当長い年月が経つが、お姉さんは、浄土真宗のご縁はほとんどない。だから、気分は、「阿弥陀様に感謝している、有り難い」と喜んでおられても、どうも善人志向の今生事である。しかし、感謝の日暮らしや善として生きることは悪いことではないし、もし普通の門徒さんなら、それでも通用するだろう。しかし、ここは後生の一大事の解決の聞法の場だ。いくらこの世で感謝が出来て、善を積めても、死んでいくとなるとすべて虚仮雑毒の善なのである。
喜んでおられるお姉さんに、なんとかそのあたりを聞いてもらいたいと、皆さん、アプローチされるがなかなか埒があかない。すべて感謝に展開されて、吸収されるからだ。
しばらく様子を窺っていたが、相手は、高齢の方でもるある。難しいところだが、あえて一言話せてももらった。「そのお念仏や感謝で大丈夫ですか。ほんとうに、私ひとりのご苦労、私ひとりの阿弥陀様と喜べますか」と。すると、やはり、そこが不安だというわれた。後生も、「私一人」と問われると、薄皮一枚不安があるというのである。
仏壇の上には、長年、信仰されていた新興宗教の教えが掲げてある。先祖を大切に、夫婦が敬愛しあい、神をまつり、世の為、人の為に感謝の日暮らしをしていく。要はそんな内容だ。言うのはやさしいが、実践するとなると難しい。同時に、いくら実践できても、所詮、今生の事で、迷いを超えていくということはないのである。厳しいことだが、ここをハッキリとお話した。「南無阿弥陀仏に出会ったなら、今生の実践(俗諦門)は、所詮、生き方で不要です。それより、後生の解決をして、二度と迷わない仏にさせてもらわないと空しいのです。今日を限りに、この額を外してください。そして、南無阿弥陀仏一つを、私一人のご苦労であったと日々聞いてください」、と申し上げた。何十年も正しい行い、喜んでこられたのである。確かに、この世の生き方だけなら、これも大切なことだ。ぼくも否定する気持ちはない。しかし、焦点は後生の解決なのだ。迷いを離れて仏にならせていただくのであるなら、これはまったく今生事。厳しいことを話したが、帰りの玄関さきでは、強くぼくの両手を握って、涙ながらに、「実は、南無阿弥陀仏が私一人ということろが、分からなかったのです。そこを知らせていたきだました」とおっしゃっている。あてにしていたらご親戚の方は欠席されたが、もともとこの方のご縁の集いであった。慎重にだが、ハッキリとお伝えするすることはお伝えせねばならないことを、改めてお知らせいただいのである。
尊いご縁でありました。南無阿弥陀仏。
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