教行寺永代経法座
例年、9月末にお声のかかる、奈良県河合町の教行寺永代経法座。毎年、K先生のお寺を紹介するのも、プログの恒例となっている。http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-8078.html
昨年は、一番のお宝だといわれた冨田渓仙の聖徳太子の軸が飾ってあった。http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-9223.html
今年は、やはり一番のお宝だと、与謝野蕪村の画であった。やはり、お寺に小金があった時代のものだったが、父子そろって、美術眼をもっておられてるようだ。
休み時間に裏山を散策した。すぐ上が神社で、裏山にはお堂や祠が点在していた。長閑な風景なのだが、池が多くて藪蚊の襲来をうけて、すぐに退散した。のんびりとカタツムリが手水のところを進んでいた。ほんものを見るのは久しぶり。
法話は2席のみ。例のコインの話。見ているつもりでも、実は何も見ていない。そして、何が見えているかよりも、どこに立って何を見ているのかをお知らせいただく。同じものでも、立場や見方が異なると、まったく違うものに見えてくる。科学的真実の立場で、浄土や阿弥陀様の有無をいくら論じても意味はないし、迷いの凡夫の立場に気付かないまま、真実の南無阿弥陀仏をわかろうとしても、意味がないのである。それより、自分の立ち位置、現在地を教えてもらうことが大切だ。昿劫から迷っているのである。無明の眼しかないのである。そのことをお教えいただいたならば、この頭で分かる分からないには、ほんとうは用事がなくなるはずである。後席で、信用と信頼の違いについて。こちらが信じるのではなくて、仏様に信頼されているというそのお心を聞かせいたただくのである。自分が信じられるようになるのではなく、すでに如来様が信じてくださっている心をお聞かせいただくのである。
夜席は1座で、東日本大震災を通じて、あてたよりと信じていた、からだも、財産も、家族も、すべて虚仮不実の無常の存在で、まったく「世間虚仮」なのだ。そして、ウソのような、架空の、ただ呪文のように(けっして呪文てはないが)思っていた南無阿弥陀仏だけが、まこと、真実だという世界があるのである。その南無阿弥陀仏は、どう迷いの私に届いてくるのか。南無阿弥陀仏の名乗りとなって、私の口を借りて、弥陀直々のお出迎えとなっているのである。この口から出る「南無阿弥陀仏」が、真実の呼び声なのである。しかし、そのお心を聞かずに、その南無阿弥陀仏だけでは、不満で、不足だと、迷いを重ねてきたのがこの私なのである。その間、どれだけの時間をたったことだろうか。いま、幸いにして人間にうまれ、遇い難いお念仏の教えにあっているのである。仏
最近、輪読法座に参加されている熱心なお同行さん二人が参加。同じ奈良県でも、京都からよりも時間がかかるようだ。檀家さん以外も、比較的若い方もおられるて、熱心に聞いてくださっている。合掌しながら聴聞される方もある。次回は、ぜひ分かち合いの時間ももちましょうといことになった。気長なことだが、少しずつでも手応えを感じている。
帰路は、カタツムリではないけれど、もちろん安全運転で。それでも、空いていたので、55分で会館に戻ってきた。
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