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岡山家庭法座

Img_6128 岡山のK氏が施主になっての家庭法座。団地の公民館を借りて、近所のオバチャンたちと、知り合いの住職さん方が、一緒に聴聞する希有な集まりだ。

 特に座談会はない。たまに一言だけでもオバチャン達にも声をだしてもらうこともある。終了後は、住職仲間と飲み会があって、みんなの思いを分かち合っている。Img_6129

 隔月で、今年はぼくが集中して担当させてもらっている。法話はオバチャン達を対象に分かりやすいたとえをいれて、それでもよく聴聞されているお坊さんたちも満足してもうら内容に配慮しているのだが、なかなか難しいものだ。

 今回は、最近、法話でもちょくちょく話させてもらっている、ぼくの信仰体験発表をした。前半は、父のことから、なぜ華光会館が起ってきたのか、その前に伊藤先生の『仏敵』のところから起こして、ぼくが幼児のころ、父と一緒にお念仏を称えるところから始まったこと、子供心にいろいろと見てきた念仏者や求道者の姿、そして父とのことから、5年生の時に、子供大会の海水浴での水難死亡事故から、無常が迫ってご示談で、「南無阿弥陀仏に飛び込め」との教示を受けたこと。そして、19歳になって得度後の大きな変化と、ご示談での、「南無阿弥陀仏に他力も自力もないぞ」の一言をきっかけに、明かに開けたきたことまで。1時30分、すべてこれだけで通した聞いてもらったのは、これが初めてだった。

 ご讃題に「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」の三帰依文をいただいたが、まさにそうである。受け難い人のいのちをいただき、慈愛受けて、ここまで養育いただいきた。母の胎内にはいることか、すべてすべて頂戴してきたのである。しかも、お念仏を称えることも教えていただたのである。ところが、そのお念仏を、なんとか自分のものにしようと計らってきたのだった。他力そののである南無阿弥陀仏を、これは自力の念仏だ、これが他力の念仏だと、自分の胸で計らってきたのである。いま、虚仮不実のこの口からは絶対にでるはずのない、真実そのものの「南無阿弥陀仏」が、弥陀直々にお出迎えしてくださっているのに、むが胸や心境と相談して、別のものを探してきたのである。それが、仏縁をいただいて、やっと真実の南無阿弥陀仏に出会わせてもらったのである。

 ああ、何ひとつ無駄なことはなかったなー。すべてすべてお念仏をいただくためのご因縁でないものはない。いまもまた、順縁、逆縁にかかわずら、すべてお念仏を喜ぶためのものでしかない。しかし、お念仏でなんとかしてもらえる、自分の思い通りになれば幸せになれるとまったく本末転倒しているのである。自分の思いどおりになろうが、なるまいが。こんなことは起って欲しくないことが起ころうが、すべてお念仏を申し、喜ばせていただくためのご縁でしかないのである。

 華光の集まりでも、また寺院布教でもない、まったく聴聞などにご縁のなかったオバャチンたちを前にしたからこそ、自分を開いて語ることができたのかもしれない。

 語り進むにつれて、涙が溢れてきた。涙を拭うことなく、またお念仏申させてもらった。

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