秋分の日の輪読法座
秋分の日。
台風が過ぎ去って、空気も秋の気配である。太陽が照っても、すがすがしい。
午前中は、年忌法要。一昨年、99歳で亡くなった宇治の同人宅へ。声をだして勤行についてきてくださり、お念仏の声も聞こえてくる。例のコインをたとえにした法話にしたら、それなりの反応があって、少々時間オーバー。反応があると、話す方も力がはいる。せめて一言でも感想がほしかったが、こちらはなかなか声は出ない。まあ、お念仏をしっかりしてくださっただけでも、収穫ありである。
大急ぎで戻って、子どもたちにお昼を食べさせて、華光誌輪読法座。
祝日ということもあって、東海支部からのお参りが多くて、20名弱のお参り。聞法旅行組は少なかったが、先月に初参りだった方々も今回も参加くださったり、久しぶりのお顔もあった。
70-3号、「末代無智章について」の誌上講話。前回、初参加者の方の質疑に答える時間が長くて、あまり進まなかったので、今回は、輪読を中心にした。せっかく真宗安心の要を示された誌上講話である。お聞かせに預かり頂くところは、わが胸の計らいは脇に置いて、まずはお聞かせに預かりたいものだ。教義的な問題、自他力の廃立に関わる要点もあるので、第一段(安心を示す)、さらにそこを3章にわけたその第2章の「たのむ機とたすくる法」を中心に、かなり補足もした。「一心一向に、たすけたまへとたのむ」という表現について、誤解されるべき点があるからだ。
しかし、身・口・意(心)の三業をあげて、自らたのみ、その頼んだことを記憶して、忘れなことが信心だという、躍動しいままさに働く如来様の願力を固定化してとらえていく一念覚知的な信心の誤りと、その後、羹に懲りて膾を冷ますような「お慈悲、お慈悲」で、自分がお留守になった無帰命安心、「そのまま」安心が、大勢として幅を聞かせ、求道や一念の体験を嫌う教界の風潮のなかで、ひとりひとりが、いま、後生の一大事に心をかけて、たすけたまへと弥陀をたのむということに焦点をあてて、ご指導いただける幸せを喜ばずにはおれなった。知的でも、単なる感情でもなく、このわが身をかけて、この身に満ちる喜びを分かち合いたいものだ。
ほかにも、第2段の報謝を示す段の、「~念仏申すべきものなり」という蓮師の教示をどう味わうのかも話題にでたのが、面白かった。教示どうりならないことで、皆さん、いろいろと解釈されているが、教示どうりでない浅ましい身であるからこそ、ゴチャゴチャ言い訳や解釈、正当化するのではなく、如来さまの言葉として、「念仏申すべきものなり」をそのままいただき、実践するべきなのだと思った。
聖教も多くて難しい法話ではあるが、1度で読み流すのではなく、何度も読んでください、とお願いした。
次回は、10月26日(水)の昼1時30分から5時。平日である。10月に発行される70-4号の新しい華光誌で行うので、お楽しみに。
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