9月の伝道研究会。七祖の発揮で、やっと法然上人に入った。
選択本願…『選択集』によって、今まで寓宗(ぐうしゅう)であった浄土門を、浄土宗として独立させ、日本一州に選択本願を弘通された。
という2行だけを読んだ。一方的に講義するのではなく、皆さんからの質問や、ぼくから投げかけた問いに、せっかく伝道研究会なので、お聖教で応えていくという形式で進んでいく。いつも聞いていることでも、質問の方向を少し替えただけで、皆さんかなりあやふやなことになっていかれることも多い。
寓宗とは何かと質問がでたので、これまでの日本仏教(宗派)の歴史、特に僧(サンガ)のあり方を歴史的にお話したりしたが、法座ではあまり触れることない話題なので、皆さん新鮮に聞いておられた。
でも、ここで重要なのは、選択本願ということである。「誰が、どこで、何を選択されたのですか」と、これまでの復習のつもりで質問したら、皆さん、沈黙。そのうち、真宗学を終えた方から「法然上人が、三選の文ですか」という答え。それをお示しくださったのは法然上人なのであるが、選択本願といえば、どうか。改めて、「誰が、どこで、何時、何を」と問うと、皆さん、見事に沈黙されてしまった。
実は、伝道研究会で、「真宗基礎講座」教義篇をテキストに開始した冒頭が、弥陀の発願だった。
もともと(七高僧の場合)、選択本願とは、四十八願のすべてを指す立場(因本願)もあるが、宗祖は、根本願として、第十八願を選択本願と見られたのである。つまり、真仮の生因三願は、すべて大悲より起っているが、選択本願として、選び取り、選び捨てをされ現れてきたのは、第十八願のみなのである。それが、テキストの冒頭に引用された、「選択本願は浄土真宗なり」(御消息集)とのお言葉となるのだ。
だからこの話題は以前にも触れている。 皆さん、初事とお聞きになるので、ここでも再載することにした。
選択は、「せんたく」ではなく、真宗では「せんじゃく」と読む。もともと、この「選択本願」とは、法然上人が、その著書を『選択本願念仏集』と題され、さらに、「本願章」には、 「選択とはすなはち、これ取捨の義なり。いはく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て、人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり」と顕しておられる。それを受けた、親鸞聖人も、第十八願名について、「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく」と示されているように、まさに、「浄土真宗は選択本願なのだ」ということになる。だから、この場合の浄土真宗は、小さなセクトとしての宗派名ではない。
法蔵菩薩の願い、ご本願は単なる願いではない。「選択摂取されたご本願」であり、真実の願なのである。
『大経』には、世自在王仏のみもとにあって、そのご指導をもとに、二百一十億の諸仏の刹土を覩見された後、「二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す」と示されているが、法然さまは、選択と摂取は、言葉は異っても同じ意味であるとみられている。つまり、選択には、「選取」「選捨」の両義があり、それに対して、摂取には、「選取」の義のみがあるように見えるが、その選取はそのまま他の「選捨」であるので、選択と摂取とは同じ意味である。もちろん、ここでの摂取は、「摂取不捨」とは別義である。
では、なぜ、選び取り、選び捨てをしてくださったのか。そのおこころは、「出離の縁有ること無し」、諸仏方のお力では絶対に救われる縁のない私くしを、なんとか救いたいの一点にかかっている。つまり、仏願の生起-そのお心が起こってきた背景が、ここにある。だから、誰のためのご本願なのか。なんの為の選択であり、五劫のご思案であるのか。そこに私が抜けると、単なるおとぎ話か神話であって、いつまでも自分の問題になってこないのである。
その十八願の願意が、信心(至心・信楽・欲生の三信)正因であることを明かすめに、十八願を、11、12、13、17、と18願に開かれた真実五願、つまり、法然上人の一願(十八願)建立の立場に対して、信心往生たる五願開示の立場が、親鸞聖人の発揮となっていくのである。
何度も、何度もお聞かせに預かっていくのではあるが、あとの皆さんの感想、分かち合いを聞いていて、もう少し形態を変えた集いの方が、皆さんの意欲にも沿うのかなあと考えさせられもした。
次回は、10月5日(水)夜7時30分~9時50分
華光同人会員が対象。意欲的に学ぶ気持ちかあれば、知識の有無は問いません。