言葉だけを聞いているのではない
9月の真宗カウンセリング研究会の月例会。
ロージャスの論文というより、職場の管理職向けに講じられた、アクティブ・リスニング(積極的な傾聴)の講演録だ。カウンセラーではなく、一般向けの講義なので、すこぶる分かりやすい。でも、経験豊かなカウンセラーなどと共に輪読すると、さらに深く読みこなすことできる。
今回は、言葉を単なる言葉上の意味だけなく、その背後に流れる感情に心を寄せて聞くことがテーマだった。聴くことには、文字取りを知的に理解する実用的な効用があるが、それだけでは、話し手は満足しない。心理的というか、情緒的な効用が満たされて、「聞いてもらった」「理解してもらった」と満足を得るものである。つまり、言葉上の表面の意味を、そのまま理解される以上に、その背後に流れる感情にも配慮され、心理的欲求が満たされることそが、人間関係上(特に身近であればあるほどだと思うが)意味が深いものである。つまり、言葉そのもの(知的・表面的)と、その底に流れる感情の両方を、全体の意味として理解していくことが聴くことであり、そのことが、相手の気持ちに応えていくことで、満足を得ることにつながる場合も多くあるのだ。
そのためには、言葉(バーバル)だけ聞くのでは不十分で、言葉の周辺部、つまりためらいとか、声の調子とか、表情の変化とか、息づかい、姿勢、手の動き、目の動きといった、ノン・バーバル(非言語)にも配慮して、相手のほんとうの気持ちを知る手がかりにするのだ。
案外、ミニカウンセリングから入った学習途上の人は、言葉をそのまま返すことがカウンセリングだという理解に留まっているが、聞くのは言葉でない。全人格的なたましいをもった人と、人が相まみえるのである。耳だけてなく、五感、いや六感も研ぎ澄ませて、その場に向かわせていただくことが、聴くという営みなのであろう。
そして、相手を理解するのは、フィードバック、つまり相手の言葉を正確に言い返し、相手に満足をえることが大切である。その場合、必ずしも、オウム返しではないので注意が必要だ。ともすれば、言葉を大切にするあらわれであるが、心の伴わない、形式的なオウム返しほど、相手に不快なものはないのである。
この「オウム返し」の記事は、研究会に会報に乗せたもので、3年前にエントリーしているので、よけばまた読み返してもらいたい。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-4605.html
といっても、なかなか、実際には至難の業だ。
すぐに一つの言葉にとらわれ、その言葉に傷つき、または引きずられていく。言葉には、さまざまな複雑な感情がともなうからだ。その場合の感情も、一時的な喜怒哀楽を問題にしているのすぎない。ほんとうに聴くのは、表に現れる喜怒哀楽ではなく、それを手がかりにしたその人自身であるのだ。まあ、理屈では分かっていても、実践では、勉強の毎日だ。
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