お盆参り
週末は、お盆参り。両手では余るほどの軒数なので、本業の方には申し訳ないが、それでも、京都を南から北へ移動して、丁寧にお参りするので、2日間はかかる。
昨日は、宇治の平等院と、日野方面に向かい、午後は、近所のお参り。京都支部法座として、しっかりと聞法の場をもってくださっている。そちらは、元気になってきた父にいってもらうことにした。
今日は、伏見の向島と上鳥羽は近鉄電車で回ったあと、午後からは市原に向かう。鴨川の上流が親水公園では、けっこうみんな泳いでいて気持ち良さそうだ。鞍馬街道を北上する。貴船の川床料理に向かうタクシーやバスで、細い道は混んでいた。お盆の京都市内の道路は空いているが、土曜、日曜に重なったために、中心部の幹線道路は軒並み混んでいた。お墓参りや観光客の車も多いのだろう。それでも、このあたりに来ると、緑も多くて、風も涼しげだ。
早くに両親を亡くされ、今年は祖母の初盆である。若いご主人が、ぼくの真後ろで、ぼくより大声で阿弥陀経をあげ、お念仏される。法話もしっかり聞いてくださる。
終わってから、子供大会のことや海の話など雑談をしていたら、突然、「話は変わりますが、先生が悟りというのか、安心を得られたというのは、どういうことか教えてください」と、いきなり、核心の質問をされた。
子供大会の海水浴での溺死者に遭遇したあとの、地獄スライドと、その後のご示談。そして、学生時代に南無阿弥陀仏のおこころに出会わせてもったことを、教義的な言葉を使わずに、要点を中心にお伝えした。
「それは、教えのなかでも、頭の中での観念でもなく、体験的で分かられたことですね。死んだらそれでおしまいだとは思えなかったし、単純にみな天国とも思えなかったんです」と、納得された表情での返答があった。これは、ますますうれしい。ここに関心をもっておられるということは、きっと彼なのに何かがあるに違いないと、今度は、ぼくからそのあたりを聞いてみた。
すると、小さな時から死を意識し、両親の死後、さまざまな苦しみから自殺寸前まで進まれたこと、さらにはその苦しみのどん底からわが身を通して、大きな愛のようなものに出会われたこと、その時に、親鸞聖人の言葉や、ネイティブアメリカンのシンプルな言葉や思想にも救われたことなどもお話くださった。前々から、その反応のよさに、楽しみにしているお家だったが、また一歩、距離が進んだ気がした。おかげでかなりの時間オーバーとなったが、こんな想定外なら大歓迎。
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