心の勉強
午前中は、日曜礼拝で、午後から、子供大会の法話の準備会を兼ねた仏青、さらに夜には、子供大会の役割の打ち合わせと、丸1日の法座。父は、大阪支部法座に出かけたが、かなり元気になってきている。
日曜礼拝は、小学校の夏祭りと重って、近所の子供たちは欠席。午前中とあって、参加者は、ちょっと寂しい。「ほんとうに大切なもの」をテーマにした法話。子供たちにも問いながら進行されていく。単純なようで、深めていくとけっこう深いテーマで、ぼくもしばしば大人の法で座取り上げている。次回の華光誌の「親と子のペーン」に掲載予定だ。
先生方と反省会を兼ねて昼食。子供大会の先生方の激励を兼ねて、T嬢が豪華なサラダ三昧を作ってくれた。見た目もきれいだが、味もおいしい。
午後からは仏青。毎年、恒例の子供大会前に法話担当者の予行練習を兼ねた法話会を開く。今年の子供大会の先生は5名と、例年の半数程度。しかもひとりは、まったく初参加である。法話も5名。ひとつはぼくがやるとして、4名の担当必要。スクランブル出動で、初参加者にも担当してもらった。過去のDVDを参考にしながら、彼女の人柄というか、雰囲気が伝わるような自然体の話し方で、大健闘してくれた。薬剤師を目指しているだけあって、動物実験の様子が生々しく、また慣れというか、麻痺していく様子もリアリティーがあった。その他の3名の方も、それぞれ工夫をしながら、「心の勉強」についてテーマと、罪悪観、無常観、後生をからめた新鮮な切り口がよかった。
それにしても、「心の勉強」というのは、分かりやすいようで、とても難しいテーマだ。第一、「心」がわからない。子供たちに聞いても、脳をさしたり、胸をさしたりする。どんな形をしているの? 色は? 大きさは? 固いのか、やわらかいのか。そして、感情が心なのか、意志が心なかの、精神? それとも業魂のようものを指すのか。そもそも、頭の勉強、技能、体育の勉強以外にある、心の勉強とは何をするものなの? 精神修養? 人格者を目指すものか? 単純に、心の時代とか、心の勉強とかいっても、ほんとうは何もわかってはいないのだ。
西洋の合理的な思考が心と体を二分化するのに対して、仏教では、心身一如の立場である。だから親鸞様も、単なる体でもなく、心でもない、「身」として押さえてられる。
また、唯識では、意、心、識と、三重構造で、心をとらえているといっていい。業識という私自身がいるのだが、単なる表層の感情だけでなく、意識、無意識を超え、また現在だけでなく、三世に渡っての、いのちを見つめる仏様の智慧から照らされて、初めて知れてくるといっていい。結局、心の勉強といっても、究極のところ、私自身を知るということ以外にはない。心の勉強が難しいのは、外側に対象があって学ぶのではなく、私自身で私が知れないのだから、私のことでありながら、仏さまの智慧によって教えてもらわなけばならないのである。本願力によって知らされる世界である。
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