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サイコドラマ

 2泊3日の壮年の集い。中日の夜座は趣向を凝らした法座の企画が提案された。壮年幹事の一人が、子供大会や仏青の出身者。提案の中にサイコドラマがあった。実は、30年前の仏青大会では定番で、普段の法座でも、たまに行なわれていた。それにしても、こんなことを70年代の真宗法座で行なっていたこと自体が驚きだ。これだけでも、華光の法座には先見の目があったのだろう。しかし、熱心に行なわれながら、徐々にやらなくなってきたのは、ひとつは、カウンセリングやエンカウンターGほど、本格的に体験学習をする人が出なかったのと、あとはマンネリが原因だと思う。それだけ信仰座談会が充実してきたともいえるだろう。

 それはともかく、約20年ぶりに華光の法座でサイコドラマ(Psychodrama)が復活した。当時、監督役の悟朗先生に代わって、今回は、初めてぼくが担当することになった。経験者も先生以外では、2、3名程度で、初めてこの言葉を聴くという人ばかりだ。簡単な背景や、その意義について説明した。その歴史は、創始者・モレノ (ウィーン大学で医学博士学位))が、1922年にウィーンで始めた即興劇場(自発性劇場)を、25年にアメリカに移住して、さらに展開させてもので、Psychology (心理) →サイコドラマ、つまり心理劇であり、行為の面からいえば即興劇といえる。しかし、こんな説明を聞いても意味はない。これは実際にからだを使った体験してみなけれど、わからない代物だ。

 さっそく、分級のまま3グループで、取り上げるテーマと、役割を相談してもらった。このグループミーティングに、けっこう時間をさいて、それぞれ個人が抱えている問題や、その人自身の課題をだしてももらった。もちろん、これは強制や押しつけで決めるものではなく、やりたくない気持ちも尊重されていく。そのなかで、各グループで、テーマが決まり、そのためのアウトラインだけを決めた配役も決まっていた。ここには、取り決めたストーリーや結末はない。すべてまったくの即興的に展開していくのだが、その時に、「こうすれば面白いだろう」とか、「こんな時はこうすべきだ」とか、もちろん、「こうしろ」というように、上手く演技するとか、回りの空気を読むとか、強制されるとかではなくて、常に「ここで、いま、私」はと、自分のいまを大切にしながら、強制ではなく、自発的に動き、黙ったり、科白をいったり、聞いたり、泣いたり、笑ったりする反応が大切なのである。

 そう考えると、日常生活も、常にアドリブの連続で、決まったゴールなどない。ただ、ある程度想定しているか、想定外のものがあるかの違いだが、常に、初毎、初毎の連続なのである。しかも、その舞台で、私自身も、さまざまな役割(ロール)を演じているのだ。家庭では、妻の前では父であり、子の前では親であり、また時に父親の前では子となっている。職場では、課長であっても、上司の前では部下であり、部下の前では上司になる。同僚の前、クライエントの前では、また求められる役割が異なってくる場合もある。さらに、子供の学校のPTAでの役割に、地域の自治会での役割、近所付き合い、親戚付き合いと、それぞれの役割が異なる度に、違った面の私が現れてくるのである。もちろん、本質的な自己(self)は、終始一貫同じだろうが、役割や相手によって、私の態度のみならず、声も、話し方も、科白の内容も、それぞれ異なっている。そんな目まぐるしい役割の違いを、日常生活でも、自然に、ある意味演じているのであろう。もちろん、固定されたメンバーの法座でも同様である。指導者は指導者役を、求道者はまっとうな求道者役を、それぞれのメンバーが固定された人間関係のなかで、知らず知らずに担い演じているかもしれない。

 ということで、日常生活でおこる実際の課題を材料にしながら、客観的に自分の言動を省みたり、普段気がつけない角度から、さまざま問題提起がなされたり、対人関係を通しての私の心を深みに触れ、心の目覚め、変革を目指していくのが、サイコドラマである。

 まあ、こんなことを、短時間にどれだけ皆さんに理解いただけるのか。また積極的に参画してもらえるのか。そして上手くいくのかどうか、ぼくも初めての体験で、一抹の心配もあったが、結果はまったくの危惧に終わった。3グループのテーマとも、親と子、妻と夫、嫁姑、親戚付きないなどの家庭問題に、職場や、家族への仏法の勧めなど、壮年世代が抱えている問題点が次々と露になってきて、それぞれが演技以上に、自然体のリアリティーをもって上演され、それぞれの感情が渦巻き、援助と聴衆がひとつになって、共感したり、反発したり、共に笑い、泣き、憤り、時には、ドキドキと苦しかったり、辛かったり、大笑いしたりと、まさに演者や聴衆が、同じ経験を一体となって味わう体験をすることができたのである。各グループ終了後の分かち合いも、単なる演技の上手い下手の批評や、心理の分析ではなく、各自が、自分が共感する科白や感情などを率直に話し合ったりので、さらに深まるものがあった。もちろん、その中には、それぞれの事情で共感できずにいたとか、「しんどい」思いを抱えて辛かったといったネガティブな声もあったが、そんな声も好意的に拾えるほど、収穫が大きかったといっていい。

 たぶん、監督をしたぼく自身が一番、収穫があったのかもしれない。時には、出演者に自分自身を投影させたり、またはある人に反発していたり、共感したりしている自分を、十分に味わいながら、皆さんと大切な何か共有する体験を持たせてもらった。集団カタルシスがおこり、会場が一体化していくのがよくわかったが、同時に、より解放され、開いてる自分も味わうことができたのである。アッという間に、3時間が過ぎたが、その余韻は、懇親会でも続いていて、意外な方の意外な面が垣間見れたり、日頃、懇親会に参加しない人まで残って、一緒に、その余韻を楽しんだ。まさに、狙い以上に、「身」で聴く体験をさせてもらったのだ。

 もちろん、翌日の信仰座談会での皆さんの態度にも、少なからず影響していた。防衛的な固い態度がほぐれて、より開放的で、積極的な皆さんがおられたことはいうまでもない。

 とにかく楽しく、面白かったのである。

 

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