2泊3日で開催された、初の壮年の集い。厳密な年齢制限のせいか、または3日間というのが制約になったのか、例年の半分の参加。その分、じっくりと関わりのもてる集いになって、3回の法話、分級座談、そして企画として「サイコドラマ」、さらに懇親会と、充実した集いととなった。
華光大会などと違って、たっぷり時間のある分級座談会。ぼく自身も、2日間と3日間では、メンバーへの関わりの姿勢が自然と異なってくる。閉じたグループか、変化するグループかによってもまた違う。その点、ほぼ同じメンバー、しかも8名程度で、同世代、それが3日間で、分級座談会が中心となる法座である。かなりゆったりと構えて過ごすことができるので、真宗法座の集いのような雰囲気があり、個人的にはよかったと思う。司会役も各グループ複数であるが、これまでお願いしたことのない新人に入ってもらって、常連組は一参加者として関わってもらうことになった。
特に、初日は、沈黙も含めて、無理に動き出さないで待ついうと感じで臨んだが、それでも、なんとなく関わりが生まれていた。わりと皆さんが自由に発言する雰囲気が生まれてくると、ぼくは少し交通整理の役目をすればいいのだ。たとえば、分析的に、少し人ごとのような聞かれている方に、急に熱く感情的に迫っていく方があったが、ほとんどかみ合っているようにみえないで、少し距離をおいてお互いが味わい、感じているところを冷静に尋ねてみると、両者の齟齬があきらかになり、そこから関係が新たになっていく場面もあって、面白かった。
また、今回は、法話が3座あったが、初日の「末代無智章」、2日目の「二種深信」、そして、その二つを受ける形で、ぼくも二種深信の詳細と、「決定のこころをとるべし」というお心をお取り次ぎした。
「心をひとつにして、深く阿弥陀仏とたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまえともうさん」という「かくのごとく決定」する第18願のおこころ。さらに「決定して、深く~~と信じる」という二種深信。ともに、深く信じる、決定するおこころがある。他力、他力というが、深い信、一心、そして決定することこそが、実は他力のお心なのである。その「決定のこころ」取れ!と、蓮如上人はいわれる。もちろん、「たのむ」のも、「たすけたまえ」とたのみもうすのも、祈願・請求(しょうぐ)ではなくて、「たすけるぞ、たのんでくれ」という弥陀の勅命に、許諾(こだく)し、信順する他力のおこころにほかならない。
しかしである。わざわざアクティブな表現になっているのはなぜか。
人ごとではないのである。私の後生が一大事なのだ。
きれいごとでも、知識や頭の上のことではない。誰がお聞かせにあずかるというのだ。
如来の本願力の働きは、生きて、いま、この私の上にこそ、働いているのである。呼びかけ、呼び覚まそうという、やるせいない大悲のお心が、躍動してつづけているのだ。
もうグズグズと甘えて親を苦しめないで、さっさと(速やかに)決定のこころをとるのである。決めさせてもらう、定めさせてもらうのである。生きて働く親の呼び声に、私も、たったいま、この「身」で、応えさせていただけばいいのである。
明日でも、あとでもない。いま速やかに決められたお方のお言葉が、如来さまのお働きをされて、あまりにも尊かった。これまでも、いままでも上げ膳、据え膳でお育てももらってきた。最後の最後も諸仏方に励まされ、如来様に押し出されて、決めさせてもらう身となった。必至に抵抗して、疑い、慮んばかっていた私が、グーの音もでないみにせさてもらった。すべて如来様のお働きだったのに、その諸仏から「よく聞いてくれたなー、ありがとう」と誉められ、如来様から頭をかげて御礼をいわれいると、勿体ない。
速やかに決定のこころを取る。そのことを目にものみせてくださった集いだった。