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2011年7月の16件の記事

同窓会の飲み会

 中学校の同窓会の飲み会。

 昨年の7月に、33年ぶりに学年全体での同窓会があった。その後、盛り上がって、たまに飲み会は続いているが、なかなか時間が合わなかった。

 で、ちょうど1年ぶりに参加。今回は、飲み会なので、京都駅前のホテルのビヤガーデンへ。ビヤガーデンに行くのも、学生時代以来で、久しぶり。

 とにかくよく飲んで、よくしゃべった。

 懐かしい人もいるが、中学時代にはほとんど話したことのない人や、一度もクラスが同じになったことがなくてお互い知らない同士でも、なぜがよく話ができた。

 50歳にもなると、女の人は、すでにおばあちゃんになっていることも。まあ、そうやなー。そんな年なんだー。中には、小学校3年生の孫がいるという話。えー、ぼくの下の子は、小学2年生なのに…。同級生に、うちの子よりも大きなお孫さんがいるなんて、ちょっとショック。

 30数年の歳月。人の数だけ、それぞれの人生があるんだなー。ひとりとして、同じ歩みをしていないのが、当たり前だけど、不思議だー。

 まだ宴は続いていたけれど、2時半をすぎたところで退席。明朝は、子供大会の準備会があるからだ。

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越前の海と、巨大スライダー

Img_5131_2 夏休み。越前の芦原温泉へ。すぐ近くに、子供のための大型プールや水族館、遊園地があるのだ。東尋坊や吉崎御坊も近い。Img_5181

 でも、子供のリクエストで、日本海での海水浴へ。天気は、時々晴れ程度の曇りで、真夏にしては暑くはない。海はきれいで、けっこう魚が泳いでいるのが見える。夏休みなのに、平日は駐車場やトイレImg_5148などは無料。テントや食べ物を持ち込んでいたので、ここでは1円も落とさずで、旅先への経済効果はなしだ。

 すぐ近くに奇勝・東尋坊があるので、足を延ばす。ここは3回目か、4回目になるか。自死の名所としても有名だが、立入禁止の安全冊がないのが、逆にいい。最近は、どこも過度の安全対策のために、興ざめすることが多いが、それこそ各自の責任での対応すればいいだけのこと。でImg_5230も、ギリギリまで行って、誤って転落する人もたまにあるらしい…。今回は、子連れなので、断崖の方には行かずに、逆に磯に降りて海の生き物を見た。Img_5256

 その夜は、芦原温泉に泊まって、ゆっくりと温泉へ。子供たちは夜店で楽しんだ。

 翌日は、芝政ワールドという、大型プールへ。とにかく広い。蓮如Img_5250上人の時代は、虎狼が住んでいたあたりなのだが、いまも、山の中は土地は余っているのだろう。

 大型プールにさまざまな種類の巨大なウImg_5236ォータースライダがある。天気は、いまひとつ。ちょっと肌寒くて、温水プールやジャグジーが恋しくなる。しかし、子供たちは、さまざまなプールと、ウォタースライダーに大興奮。確かに大人でも楽しい。ただ、下の子はひとりではちょっと怖くて、いつもぼくと一緒。彼女は、息継ぎはできないが、かなり泳げるようになって、Img_5262泳ぐほうが楽しいようだ。i遊園地でも少し遊んだが、閉館時間までたっぷりと楽しんだ。眼下には、昨日、泳いだ海も見えている。きれいな海岸線に、わさわざ波のでる大型プールで泳ぐって、ちょっと変な感じもしたが…。Img_5249

 帰路は、土砂降り。途中、すごい雷だ。でも、京都に戻るとまったく降っていなかった。全般に、水泳日和ではなかったが、曇っていたわりに、今年最初の海で、けっこう肩や腕が日焼け。一番、ヒリヒリするのは、おでこというより、後退した生え際あたり。翌朝には、真っ赤になっていた。

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心の勉強

 午前中は、日曜礼拝で、午後から、子供大会の法話の準備会を兼ねた仏青、さらに夜には、子供大会の役割の打ち合わせと、丸1日の法座。父は、大阪支部法座に出かけたが、かなり元気になってきている。

 日曜礼拝は、小学校の夏祭りと重って、近所の子供たちは欠席。午前中とあって、参加者は、ちょっと寂しい。「ほんとうに大切なもの」をテーマにした法話。子供たちにも問いながら進行されていく。単純なようで、深めていくとけっこう深いテーマで、ぼくもしばしば大人の法でImg_5122座取り上げている。次回の華光誌の「親と子のペーン」に掲載予定だ。

 先生方と反省会を兼ねて昼食。子供大会の先生方の激励を兼ねて、T嬢が豪華なサラダ三昧を作ってくれた。見た目もきれいだが、味もおいしい。Img_5121_2

 午後からは仏青。毎年、恒例の子供大会前に法話担当者の予行練習を兼ねた法話会を開く。今年の子供大会の先生は5名と、例年の半数程度。しかもひとりは、まったく初参加である。法話も5名。ひとつはぼくがやるとして、4名の担当必要。スクランブル出動で、初参加者にも担当してもらった。過去のDVDを参考にしながら、彼女の人柄というか、雰囲気が伝わるような自然体の話し方で、大健闘してくれた。薬剤師を目指しているだけあって、動物実験の様子が生々しく、また慣れというか、麻痺していく様子もリアリティーがあった。その他の3名の方も、それぞれ工夫をしながら、「心の勉強」についてテーマと、罪悪観、無常観、後生をからめた新鮮な切り口がよかった。

 それにしても、「心の勉強」というのは、分かりやすいようで、とても難しいテーマだ。第一、「心」がわからない。子供たちに聞いても、脳をさしたり、胸をさしたりする。どんな形をしているの?  色は?  大きさは?  固いのか、やわらかいのか。そして、感情が心なのか、意志が心なかの、精神? それとも業魂のようものを指すのか。そもそも、頭の勉強、技能、体育の勉強以外にある、心の勉強とは何をするものなの? 精神修養? 人格者を目指すものか? 単純に、心の時代とか、心の勉強とかいっても、ほんとうは何もわかってはいないのだ。

 西洋の合理的な思考が心と体を二分化するのに対して、仏教では、心身一如の立場である。だから親鸞様も、単なる体でもなく、心でもない、「身」として押さえてられる。
また、唯識では、意、心、識と、三重構造で、心をとらえているといっていい。業識という私自身がいるのだが、単なる表層の感情だけでなく、意識、無意識を超え、また現在だけでなく、三世に渡っての、いのちを見つめる仏様の智慧から照らされて、初めて知れてくるといっていい。結局、心の勉強といっても、究極のところ、私自身を知るということ以外にはない。心の勉強が難しいのは、外側に対象があって学ぶのではなく、私自身で私が知れないのだから、私のことでありながら、仏さまの智慧によって教えてもらわなけばならないのである。本願力によって知らされる世界である。

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プール

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晴れていたので、子供を連れて伏見にあるプールへ。

ぼくも子供のころ、姉や友達と一緒に泳ぎに来たことがある。

公共施設なのだが、それにしも禁止事項が多くて、やたら注意されるのだが、煩わしくも、細かすぎてどこかおかしい。

この子供の写真を撮影していたら、「カメラは禁止されています」とのこと。昨年は、注意されなかった。そのことを言うと、今年からの処置だという。いまのご時世、まあ当然かなと納得するが、何か寂しくもある。

その次は、ダイバー用の防水の時計をつけて泳いでいたら、「時計は危険ですので、プールに入られるのなら外してください」と、わざわさ注意しにきてくださった。ハイハイ、わかりました。Tシャツを来て泳ぐのも禁止。水着以外はダメだというのだ。ロッカーの鍵の身のつけ方(鍵を中に入れて外にでないように注意すること)まで、こまかく指導してくださるのだ。直接だけでなく、拡声器を使って、「そこは走らないで」とか、「帽子をかぶってください」と大人でも注意されている。

放送でも絶えず、「プールでの悪ふざけは、事故につながります。くれぐれも悪ふざけはやめてください」などの警告がつづく。ここは公共の運動施設なので、ワイワイ楽しまないで、もくもくと泳げということなのだろう。

しかも、午前の部は12時30分で終了。全員、時間までにプールからあがり、Img_5119ロッカーも閉まるので、それまでに着替えて、外に出なくてはなならい。もう少し泳ぎたいのなら、もう一度並んで、1時30分から再会される昼の部まで、待たないといけないのだ。

ここまで徹底していると逆におかしもくある。もしアルバイトなら、かなりやる気のある監視員たちであろうが、年輩の人も多いので、たぶん京都市の職員なのだろう。

あっちこっちに禁止事項が貼ってあるが、それを見るのでも、ある意味、妙で面白かったが、逆にいうと、事故の時の責任にたいしての予防線ということなんだろうなー。

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ドッチボールと、肝試しでしたが…

 子供たちは夏休みにはいる。

 学校とPTAが主催した6年生の夕方からのお楽しみ会に出席する。

 親対子供のドッチボール大会。ボールひとつの時は、よかったけれど、ボールが二つになると、なかなか難しい。ほくも、けっこう健闘したけれど、自分も3度も当てられて外野へ。それでも、すぐに復活するのだが、結局、4度目の復活はなくて、親チームは完敗。当てられたのは、いずれも、ボールを上手くキャッチして、当てよう狙いをつけている時に、後ろから2個目のボールでアウトになるということの繰り返し。前ばかり見ていたら、後ろから足元をすくわれたということ。チャンスとなると前しか見ていないのダナー。結局、後ろには目がないので、ご注意を!ということ。

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 夕食のお弁当を挟んで、子供だけ参加の肝試し(お化け屋敷)大会。PTAが驚かす志向を凝らして、真っ暗校舎の中を大きく一周するというもの。夜の学校は、けっこう怖いものだ。ましてや、ここは田舎なので回りは暗く、ただカエルの鳴き声と、子供の悲鳴だけが聞こえている。

 でも、だんだんと心配になってきた。夜9時の終了予定が、なんの説明もないまま、30分、45分と延びているのに、まだわが子の順番がやってこいないのだ。自宅まで遠いので、何時ごろに終了するのか尋ねにいくと、たまたま横にいた役員さん同士の会話が耳に入ってきた。ひとりの方が、「だいぶ遅くなったなー」、すると、もうひとりの責任者らしき人が、「まあ、楽しいからいいやん」との声。いやー、それはどうかなと、おもわず知らず、プチ抗議して、ちょっと赤面。

 でも、普通なら、時間延長の説明や、企画を前倒しして新たな終了時間の確認があってしかるべきもの。しかも、肝試しは6年生だけの参加で、幼児も含む弟、妹は、親と、体育館で待たされていて、夜も10時近くになるとクズる子もでてくる。わが家では、夜9時30分には就寝の準備にはいるのだ。主催者側にすれば、一生懸命工夫をして、参加した子供たちは喜んでいる。楽しいという点では大成功の企画だけれど、一方で、小学校での夜の行事なのであって、ブライペートな集まりではない。ある程度、終了時間を守ったり、遅くなるときの説明など、安全面の観点から考慮してほしかった。まあ、ここもボールが二つあるドッチのようなもので、「楽しい、子供たちか喜んでいる」というボールを受けたら、もうひとつの後ろにあるボールが見えなくなるのだ。娯楽と、安全がぶつかった時ほど、少し冷静になって安全面を優先する。長年、子供会を主催者しているぼく自身が心がけているところではあるが、このあたりは、所変わればというところか。

 結局、子供が戻ってきた時点で、終了を待たずに帰宅した。それでも、自宅に着いたのは、11時前になって、二人は車のなかでグッタリ。、歯磨きも、シャワーもないままに寝てしまった。進行のまずさに、ぼくもプチ不機嫌に…。まあ、改めて勉強させてもらいましたが…。

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サイコドラマ

 2泊3日の壮年の集い。中日の夜座は趣向を凝らした法座の企画が提案された。壮年幹事の一人が、子供大会や仏青の出身者。提案の中にサイコドラマがあった。実は、30年前の仏青大会では定番で、普段の法座でも、たまに行なわれていた。それにしても、こんなことを70年代の真宗法座で行なっていたこと自体が驚きだ。これだけでも、華光の法座には先見の目があったのだろう。しかし、熱心に行なわれながら、徐々にやらなくなってきたのは、ひとつは、カウンセリングやエンカウンターGほど、本格的に体験学習をする人が出なかったのと、あとはマンネリが原因だと思う。それだけ信仰座談会が充実してきたともいえるだろう。

 それはともかく、約20年ぶりに華光の法座でサイコドラマ(Psychodrama)が復活した。当時、監督役の悟朗先生に代わって、今回は、初めてぼくが担当することになった。経験者も先生以外では、2、3名程度で、初めてこの言葉を聴くという人ばかりだ。簡単な背景や、その意義について説明した。その歴史は、創始者・モレノ (ウィーン大学で医学博士学位))が、1922年にウィーンで始めた即興劇場(自発性劇場)を、25年にアメリカに移住して、さらに展開させてもので、Psychology (心理) →サイコドラマ、つまり心理劇であり、行為の面からいえば即興劇といえる。しかし、こんな説明を聞いても意味はない。これは実際にからだを使った体験してみなけれど、わからない代物だ。

 さっそく、分級のまま3グループで、取り上げるテーマと、役割を相談してもらった。このグループミーティングに、けっこう時間をさいて、それぞれ個人が抱えている問題や、その人自身の課題をだしてももらった。もちろん、これは強制や押しつけで決めるものではなく、やりたくない気持ちも尊重されていく。そのなかで、各グループで、テーマが決まり、そのためのアウトラインだけを決めた配役も決まっていた。ここには、取り決めたストーリーや結末はない。すべてまったくの即興的に展開していくのだが、その時に、「こうすれば面白いだろう」とか、「こんな時はこうすべきだ」とか、もちろん、「こうしろ」というように、上手く演技するとか、回りの空気を読むとか、強制されるとかではなくて、常に「ここで、いま、私」はと、自分のいまを大切にしながら、強制ではなく、自発的に動き、黙ったり、科白をいったり、聞いたり、泣いたり、笑ったりする反応が大切なのである。

 そう考えると、日常生活も、常にアドリブの連続で、決まったゴールなどない。ただ、ある程度想定しているか、想定外のものがあるかの違いだが、常に、初毎、初毎の連続なのである。しかも、その舞台で、私自身も、さまざまな役割(ロール)を演じているのだ。家庭では、妻の前では父であり、子の前では親であり、また時に父親の前では子となっている。職場では、課長であっても、上司の前では部下であり、部下の前では上司になる。同僚の前、クライエントの前では、また求められる役割が異なってくる場合もある。さらに、子供の学校のPTAでの役割に、地域の自治会での役割、近所付き合い、親戚付き合いと、それぞれの役割が異なる度に、違った面の私が現れてくるのである。もちろん、本質的な自己(self)は、終始一貫同じだろうが、役割や相手によって、私の態度のみならず、声も、話し方も、科白の内容も、それぞれ異なっている。そんな目まぐるしい役割の違いを、日常生活でも、自然に、ある意味演じているのであろう。もちろん、固定されたメンバーの法座でも同様である。指導者は指導者役を、求道者はまっとうな求道者役を、それぞれのメンバーが固定された人間関係のなかで、知らず知らずに担い演じているかもしれない。

 ということで、日常生活でおこる実際の課題を材料にしながら、客観的に自分の言動を省みたり、普段気がつけない角度から、さまざま問題提起がなされたり、対人関係を通しての私の心を深みに触れ、心の目覚め、変革を目指していくのが、サイコドラマである。

 まあ、こんなことを、短時間にどれだけ皆さんに理解いただけるのか。また積極的に参画してもらえるのか。そして上手くいくのかどうか、ぼくも初めての体験で、一抹の心配もあったが、結果はまったくの危惧に終わった。3グループのテーマとも、親と子、妻と夫、嫁姑、親戚付きないなどの家庭問題に、職場や、家族への仏法の勧めなど、壮年世代が抱えている問題点が次々と露になってきて、それぞれが演技以上に、自然体のリアリティーをもって上演され、それぞれの感情が渦巻き、援助と聴衆がひとつになって、共感したり、反発したり、共に笑い、泣き、憤り、時には、ドキドキと苦しかったり、辛かったり、大笑いしたりと、まさに演者や聴衆が、同じ経験を一体となって味わう体験をすることができたのである。各グループ終了後の分かち合いも、単なる演技の上手い下手の批評や、心理の分析ではなく、各自が、自分が共感する科白や感情などを率直に話し合ったりので、さらに深まるものがあった。もちろん、その中には、それぞれの事情で共感できずにいたとか、「しんどい」思いを抱えて辛かったといったネガティブな声もあったが、そんな声も好意的に拾えるほど、収穫が大きかったといっていい。

 たぶん、監督をしたぼく自身が一番、収穫があったのかもしれない。時には、出演者に自分自身を投影させたり、またはある人に反発していたり、共感したりしている自分を、十分に味わいながら、皆さんと大切な何か共有する体験を持たせてもらった。集団カタルシスがおこり、会場が一体化していくのがよくわかったが、同時に、より解放され、開いてる自分も味わうことができたのである。アッという間に、3時間が過ぎたが、その余韻は、懇親会でも続いていて、意外な方の意外な面が垣間見れたり、日頃、懇親会に参加しない人まで残って、一緒に、その余韻を楽しんだ。まさに、狙い以上に、「身」で聴く体験をさせてもらったのだ。

 もちろん、翌日の信仰座談会での皆さんの態度にも、少なからず影響していた。防衛的な固い態度がほぐれて、より開放的で、積極的な皆さんがおられたことはいうまでもない。

 とにかく楽しく、面白かったのである。

 

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速やかに「決定のこころ」をとるべし

 2泊3日で開催された、初の壮年の集い。厳密な年齢制限のせいか、または3日間というのが制約になったのか、例年の半分の参加。その分、じっくりと関わりのもてる集いになって、3回の法話、分級座談、そして企画として「サイコドラマ」、さらに懇親会と、充実した集いととなった。

 華光大会などと違って、たっぷり時間のある分級座談会。ぼく自身も、2日間と3日間では、メンバーへの関わりの姿勢が自然と異なってくる。閉じたグループか、変化するグループかによってもまた違う。その点、ほぼ同じメンバー、しかも8名程度で、同世代、それが3日間で、分級座談会が中心となる法座である。かなりゆったりと構えて過ごすことができるので、真宗法座の集いのような雰囲気があり、個人的にはよかったと思う。司会役も各グループ複数であるが、これまでお願いしたことのない新人に入ってもらって、常連組は一参加者として関わってもらうことになった。

 特に、初日は、沈黙も含めて、無理に動き出さないで待ついうと感じで臨んだが、それでも、なんとなく関わりが生まれていた。わりと皆さんが自由に発言する雰囲気が生まれてくると、ぼくは少し交通整理の役目をすればいいのだ。たとえば、分析的に、少し人ごとのような聞かれている方に、急に熱く感情的に迫っていく方があったが、ほとんどかみ合っているようにみえないで、少し距離をおいてお互いが味わい、感じているところを冷静に尋ねてみると、両者の齟齬があきらかになり、そこから関係が新たになっていく場面もあって、面白かった。

 また、今回は、法話が3座あったが、初日の「末代無智章」、2日目の「二種深信」、そして、その二つを受ける形で、ぼくも二種深信の詳細と、「決定のこころをとるべし」というお心をお取り次ぎした。

 「心をひとつにして、深く阿弥陀仏とたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまえともうさん」という「かくのごとく決定」する第18願のおこころ。さらに「決定して、深く~~と信じる」という二種深信。ともに、深く信じる、決定するおこころがある。他力、他力というが、深い信、一心、そして決定することこそが、実は他力のお心なのである。その「決定のこころ」取れ!と、蓮如上人はいわれる。もちろん、「たのむ」のも、「たすけたまえ」とたのみもうすのも、祈願・請求(しょうぐ)ではなくて、「たすけるぞ、たのんでくれ」という弥陀の勅命に、許諾(こだく)し、信順する他力のおこころにほかならない。

 しかしである。わざわざアクティブな表現になっているのはなぜか。

 人ごとではないのである。私の後生が一大事なのだ。

 きれいごとでも、知識や頭の上のことではない。誰がお聞かせにあずかるというのだ。

 如来の本願力の働きは、生きて、いま、この私の上にこそ、働いているのである。呼びかけ、呼び覚まそうという、やるせいない大悲のお心が、躍動してつづけているのだ。

 もうグズグズと甘えて親を苦しめないで、さっさと(速やかに)決定のこころをとるのである。決めさせてもらう、定めさせてもらうのである。生きて働く親の呼び声に、私も、たったいま、この「身」で、応えさせていただけばいいのである。

 明日でも、あとでもない。いま速やかに決められたお方のお言葉が、如来さまのお働きをされて、あまりにも尊かった。これまでも、いままでも上げ膳、据え膳でお育てももらってきた。最後の最後も諸仏方に励まされ、如来様に押し出されて、決めさせてもらう身となった。必至に抵抗して、疑い、慮んばかっていた私が、グーの音もでないみにせさてもらった。すべて如来様のお働きだったのに、その諸仏から「よく聞いてくれたなー、ありがとう」と誉められ、如来様から頭をかげて御礼をいわれいると、勿体ない。

 速やかに決定のこころを取る。そのことを目にものみせてくださった集いだった。

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「仏の子供大会」申込みは早めに!

  8月5日(金)~8日(月)、3泊4日の日程で、華光仏の子供大会が開催される。会場は、廃校になった小学校を再生させた、三重県の南伊勢町にある「海ぼうず」という宿舎。静かな漁村の高台にあって、なかなか素敵な環境だ。リアス式海岸の五ヶ所湾にある海もきれいで、すぐ後ろは山もある。

 この華光仏の子供大会も、今年が60回目の節目を迎える。華光大会に続いて、仏の子供大会は、古い歴史をもっている。昔は、春の大会(大人中心)、夏の大会(子供中心)というふうに分けていた時もあったし、5泊6日間で行なわれていた時もあった。年に2度の年もあって、今年が少し早い還暦を迎えることになる。

 20年ほど前から、少子化と、子供の夏休みの多忙、レジャーの多様化などもあって、子供の参加者が激変した。そこに、最近は、学生の先生方の確保が難しくなっている。バイトやクラブ、そして学校とあって、子供大会を第一に考える使命感をもつ若い人が減ってきた。今年も、先生はまったく不足していて、ぼくらロートルが頑張らないといけないのが現状。これはちょっと寂しい。

 ところが、子供の参加者は久しぶりに、盛況だ。初参加のファミリー組がある。また、母親が、子供大会出身や先生をしてくれていたという、2世、3世もある。アメリカからも、家族ぐるみで参加くださる方もあるが、これは、これまでもちょくちょくあったことだ。

 数日前、家族4名で参加したいとい問い合わせ。紹介者を尋ねてもハッキリと応えずに、ちょっと警戒している感じがしたという。和歌山の方だったが、名前に思い当たらない。それが、今日、申込書が届いたが、人数も増えて5名。しかも、引率者か、81歳のおばあちゃんだというのだ。Tさんの報告を聞いて、見知らぬ、高齢者である、ハードなプログラムなので、お断りをしたほうがいいかもしれないと思い、事務所へ。子供の申込書の名前はまったく知らない人だ。ところが、そのおばあちゃんの申込書をみて、びっくりした。35年ほど前に、仏青に参加されていたNさんではないか。学生世代の子供たちを4名兄妹と連れたって、みんな、かなり熱心に、仏青の常連して10年以上は参加されていた。いまも、ご兄弟の一人が華光とのつながりもある。では、見知らぬ方は、末っ子のYちゃんか。 結婚をされて、氏名が代わっていたので、まったく気付かなかった。彼女も、日曜学校を手伝ってくれたり、1度だけ、子供大会の先生をしてもらったこともあるのだ。そっそく、電話をしてみる。ぼくも学生時代だったので、もう26、7年以上前のことになる。結婚されてからは華光とのご縁もなくなり、九州などの遠方におられたそうで、それが昨年から近畿に戻り、子供さんも参加対象の年齢になられたので、少しでも仏縁をつけたいと参加を思いたってくださったというのである。懐かしいのと同時に、少しでも覚えてくれていたことが、うれしかった。

  でも、喜んでばかりもいらない。前日の華光会館泊の希望者だけで、14名にもなっている。しかも、この調子なら、45名の定員をオーバーして、50名ぐらいになりそうだ。すでに、マイクロバスが一杯で、レンタカーも押さえていたが、それでも足りないかもしれない。会場の都合もある。〆切は、まだ数日あるが、常連の方の申込みがまだない。どうか参加希望者は、お早めにお申し込みください。〆切前でも、定員になり次第で終わる場合もあります。詳しくは、以下のアドレスへ。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2011/details/08/kodomo2011-8.htm

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祇園祭と「壮年の集い」あります

Img_5034  月曜日、岡山法座の前に、京都シネマで『亡命』を観る。文化大革命から天安門事件をへて、政治的弾圧によって中国を追われ、弾圧に屈せず、外国を拠点に発信を続ける政治活動家や作家、詩人、亡命知識人のインタピューで構成されている。国家と個人、祖Img_5037国とは何か、そして、それぞれの使命や覚悟のほどが見えてくるところは、面白かった。淡々としているので、ちょっと退屈ではある。

映画館の裏手で、ちょうど鶏鉾の鉾建ての最中だった。中心の真木の長さは鉾によって異なるが、20~Img_506625Mの長さになるそうだ。

それが、今日は、すでに駒形提灯に灯がともり、コンチキチンの風情あるお囃子が聞こえてきた。まだ歩行天国にはなっていなかったが、すでにお祭ムードは醸しだしている。Img_5055

 今日は、「壮年の集い」の掃除の第1弾があった(ご苦労さまでした)が、それにしても連日暑い。この週末も、36度の猛暑日の予報。だいたい祇園祭が終わらないと、梅雨は明けないのだが、今年のImg_5068梅雨明けは早くて、その分、猛暑が続いてる。

 ちょうど「壮年の集い」と、祇園祭の宵山、山鉾巡行が重なっている。16日、少し早めに京都駅に着かれたら、地下鉄で5、6分。昼間なので、風情はないが、山鉾や屏風などは拝見できるだろう。Img_5059_2なんなら、夕方の休み時間に行かれてもいいだろうが、相当の人出を覚悟せねばならない。

  肝心の「壮年の集い」は、2泊3日と意欲的だったが、年齢制限を厳密にしたのもあるが、支部法座が飽和状態だったり、震災や電力需要のImg_5061影響もあって、例年の半数程度の参加。その分、少数でも、サイコドラマなど意欲的な集いなることを期待している。

行事名:壮年の集い

日時:7月16日(土)昼1時30分~18日(祝)夕方4時30分(1日とか、半日の部分参加も可)

会場:華光会館

参加資格:35歳~65歳の壮年層限定

まだ少ないので、申込外の方でも、参加できます。ただし、宿泊等は、大至急、お問い合わせください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2011/details/07/sounen2011-7.htm

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7月の輪読

 華光誌輪読の平日法座。

 平日にもかかわらず、輪読に初参加の方が5名あって、久々に賑やかだった。

 「巻頭言」と、「聖教のこころ」の輪読。輪読は、「悲しみに寄り添う」という、若手の先生の一文。ほんとうは、「すべての悲しみに寄り添うこころ」が原題だったけれど、長すぎるので短くした。

 なぜ、苦しみでなく、悲しみなのだろうか。すべての悲しみとはなにか、そこに寄り添うとはどういうことかなどの疑問を考えながら進んだ。結局、凡夫の私の心は、自分の悲しみや苦しみには寄り添って癒されたいが、人のそれには無関心で、小慈も小悲もなき身であることを、知らせるばかりである。ただ生きとし生きるのも、そのすべての悲しみ、苦しみの本を除き、最高の楽を与えたいという大慈悲心で成就された南無阿弥陀仏だけが、すべての苦しみ、悲しみに寄り添うことができる、末通った大慈悲心だといわればならない。

 途中で、仏の子供大会の申込での来館者あり。たまたまた事務所が留守なので、少し対応したり、そのために調べ物があったり、少し抜けたのが残念。〆切は先だが、今年は初参加者も多くて出足は好調。逆に、マイクロバスの定員をオーバーして、急遽、レンタカーを手配した。

 週末から、4日続きの法座で、それ以外にも、この間にはいろいろなことがあったし、それにこの暑さである。かなりお疲れ気味で、ぼく自身、今回の法座は集中力にややかけていたきらいがある。これは要反省。

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岡山の家庭法座

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 広島から一端京都に戻ってから、岡山の家庭法座へ。

 新幹線の車中で依頼のあった出版書の推薦文の執筆作業。これが真宗の書物ならいいが、『できる社長は、なぜ損益計算書を信じないのか』という、Y先生の経営、会計に関するビジネス書物。いや、ちょっと困りました。まったく門外漢で、その分ゲラ段階の書物にしっかり目を通し、無い頭をひねって、やっと字数制限どおりに納まって、送信。

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 それしても岡山も暑い。駅前の噴水だけは涼しげ。桃太郎は、キジならぬハトを引き連れている。サルの頭にもハトが止まっている。さすがに、桃太郎の土地。防火水の扉も、桃太郎。

Img_5039 3日続けての法座だが、3日とも、クーラーない会場での法事や法座が続く。まあ、前の2日間は、田舎で緑や川が近くで凌ぎやすかったが、さすがに岡山は都会である。それでも、京都のImg_5053市街地よりは、かなりましな気がした。

 普通のお仕事をされている個人が、隔月に近所のおばちゃんを集めて法話会をもっておられる。知り合いのお坊さんや在家の方も担当されていて、華光会館の事務所のT嬢も招かれておられる。ぼくは1月に始めて声がかかったが、今年は、ぼくの集中法話ということになっているそうだ。ここは、近所のオバチャンたちと、仲間のご住職方が、半数ずつ集まられる、ちょっと不思議な、有り難い集いだ。法話の焦点は、初心のオバチャンに当てている。分かりやすい、身近な法話につとめているが、それでも焦点は外さないで、お伝えすることはお伝えしている。

 終わってからは飲み会。お坊さんたちも、いろいろな意味で、ぼくに期待してくださっているのがうれしい。でも、まあもう少しお待ちくださいな。いまは、しっかり死んで、新たに生まれるというプロセスの最中。それにしても、しっかり死ぬのはなかなか容易じゃないよなー。

 

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広島Y家家庭法座

Img_5029  毎年、7月の第二日曜日に開かれているY家での支部家庭法座。仏壇を新しくされたことをきっかけに、毎年、ご縁が続いく。もう6、7年目だ。うれしいのは、同人の奥様だけでなく、ご主人も開催に積極的で、長男さんご夫婦もご法座に参加し、座談を含めて最後まで出でくださることだ。Img_5026

 京都駅まで子供たちに見送ってもらって、いつもの広島法座より2時間、早い新幹線に乗車し、広島駅でジャンボータクシーに乗り込む。Y家のお仕事で、運転はご長男。彼も、子ども大会にはずっと出席してくださり、お子さんも長らく参加されていた。もともとは、アメリカから逆輸入で、仏法が入ってきた。そして、母から娘へと繋がったのが、いまのYさん。そしてその子から孫へと、ご縁が続いているので、子ども大会を含Img_5031めると、4世代目にあたるご縁。実は、娘時代のYさんには、生まれたばかりのぼくが、お守りをしてもらっている写真がある。求道のために、会館にこれていていたのだ。49年前のことになる。

 中国道を島根の方面に向かって、安芸高田市の高宮町まで、緑の中をドライブ。HPを見て参加くださった、初参加の僧侶の方もあった。行信などで教学の勉強されながらも、華光会にも関心をもってくださっていて、「三帖和讃」の本も、すでにもっておられた。皆さんとも共通の知人も多く、いろいろなところからご縁を喜んだ。同時に、華光での純粋培養でのお育てを受けてきたことの素晴らしさと、寄り道せずに直道でこれたこの身の幸せも実感させられる。

 毎年、梅雨Img_5022_2の最中で雨か、曇り空だが、今年は梅雨明けが一足早い。空も、すっかり真夏で、うだるような暑さ。山に挟まれた緑豊かな会場には、クーラーはない。別に節電のためではなく、それだけ涼しということ。広い仏間は、縁側の窓も全開し、川からの風か心地よい。それでも,さすがに今日は暑かったが、緑が豊かだと気持ちもよい。窓の外には、例によって蓮の花がお出迎え。

    法話は、親鸞様の唯信鈔文意から、「賢善精進と内懐虚仮についImg_5024て」、これは、法の真実から照らされた人生の実相、機の真実について。まさに「心口各異、言念無実」で、どこにもまことがない。にもかかわらず、外面は、賢人ぶり、善人ぶり、精進の姿を示して、ええかっこするしかないのが私の実態だある。もう、それ以外にない。いくら外側だけを飾っても、その内はゴミ屋敷なのであるのに、それは隠して通している。では、そImg_5023のええかっこしいを除いたら、私には何が残るのか。仏法を聴くといっても、名聞(名声)と、利養(利益)のバランスばかりを気にかけ、そして常に、勝他のこころで、「負けともない」と、「勝った、勝った」と自惚れ、突っ張っている私の実態がある。こうなると、いくら口で「仏法のため」(時には華光のため)といっていも、実は、「おれが、おれが」の姿しかないのであるが、仏法という名の正義のために、外側の賢善精進の姿しか見えなってくるのだ。それこそが、まさに、地獄行きの、私のほんとうの「身」なのである。聖人は、常に、「心」といわないで、そんな心をもって「身」であると押さえておられる。まさに、「身」である。頭で分かったり、心を静める程度ではない。もうどうしようもない、宿業の「身」が、この私なのである。そこにしか、弥陀の本願はないのである。

 

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暑い一日

Img_4958  3月末に亡くなった華光古参同人の百ケ日法要。最初が宇治で、その後、代替わりで岩倉に移り、今年から、静原というように、どんどんと北へ移動されている。

 梅雨明けで、かなり暑い。まだ9時台だというのに、舗装された道路の気温は36度を示していた。Img_4956

 細い鞍馬街道を北上する。もちろん京都市だが、ぼくはこのあたりはほとんど来たことがない。もうすぐ鞍馬というあたりまで進む。鴨川の上流へと遡るのだが、このあたりまでくると、清流である。途中で、岩場で、水泳をしている子供たちを発見。気持ちよさそうで、見ているだけでも一服の清涼剤。北山杉に囲まれ、緑も多くて、風もある。心なしか涼しい気分。緑が多い分、市街地とは少しは違う。お宅も、かなり広い庭と、民家を自分たちで改造中の素敵な雰囲気。

Img_4959_2 午後からは、子供サービス。プールを一番手に考えたが、都合が悪くなった。といって、野外の施設は、暑すぎる。下の子のリクエストで、科学センターに変更し、プラネタリウムを見ることにした。うーん、これは正解。

 夏の大三角の話。デネブって、すごいImg_4973星なんだなー。こと座にまつわるギリシャ神話。死んだ妻を、冥界から救い出すお話。絶対、振り向くなといわれた冥界の王との約束があったのに、彼女が間違いなく付いてきていることが信じられずに、最後の最後に破ってしまう悲劇。まさに人間の悲しさがあImg_4993るなー。

 ほかの施設も、少し大きくなったナナは大喜び。骸骨模様のシャツに、オオダラゴマが見事にとまった。

Img_4981

 明日からも広島、岡山、輪読と、3連続で法座が続く。少しだけ午後は一休みだったけど、けっこう疲れたなー。

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たった一人の授業参観

Img_4920 朝から参観日。とても不思議な気持ちで、小学校へ。うーん、いい環境。

 といっても、単なる授業参観ではなく、低学年は、1、2時間目は、体育(ゲーム)を通じての親子での触れ合いの時間と、3、4時間目は、家庭科室で子供の好きなフリカケを調理して食べる時間との2本立て。

 体育館でのゲームは、子供大会でもよくやる新聞紙でのジャイImg_4921ケンゲームと、親子で、ボールを宝物の見立てての宝物集め。ナナと、蒸し暑い体育館を走り回ったおかげで、個人でも、チームでも好成績。

 ところが、3、4時間目が誤算。親子で作って試食するのかと思っていたら、母親の交流のための時間で、まったく知らないママさん、30名ほどの間での黒一点。しかも、みんな、エプロン、三角巾姿で、料理。試食の時間も、ママさんだけの交流。いや、これは参りました。しばらくして、連れ合いが来てくれたので、会食のところはバトンタッチ。やれやれ。

Img_4931_2 ここまでせっかく来たので、ふたりの教室をのぞかせてもらった。一人での授業参観。でも、残念ながら、テストと、テスト手直しと、そして休み時間で、実際の授業風景はなかったけれど、クラスの雰囲気は十分伝わってきて満足。

 子供が昔の日本の偉人を肖像画を描いていた。わー、うちの子の担当は、すごく渋い。本居宣長ですかー。実際、お会いしたことはないので、似てるのか、似てないのかわからんが。もちろん描いた本人も、「昔のエライ人」程度で、何をした人かも分からなかImg_4940ったようですが…。

 終わってから、気分転換に、琵琶湖に足を延ばして散策。梅雨明けで、日差しが強かった。一足早く夏だーなー。

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伝道研究会~曇鸞大師のご功績~

 7月の伝道研究会。

 先月から、「七祖の伝承」の部分から、七祖の発揮、その特色についてを一口にまとめたところに入る。サっと読めば、すぐに済んで、分かったような、分からんような形で終わるが、そこから、皆さんに合わせてぼくから、言葉にひとつひとつに質問を出す。または、皆さんからの素朴な疑問に応える形で発展していく。

 今夜は、曇鸞、道綽、善導様という中国の三人のお祖師方について。

 たとえば、曇鸞大師のところ。なぜ、インドのお二人が菩薩なのに、この方から、菩薩ではないのか。親鸞様は、和讃や正信偈でどうご覧になっていたのか(鸞菩薩と仰がれた行跡を語られる)などを考えたあとに、本文の内容へ。

「往還二廻向…上二祖の教義を統合され、『論註』によって、往生の因と果も、さらには還相摂化も、ともに弥陀の他力によるものであるという、他利利他の深義を弘宣された。すなわち、他力と、その内容である二廻向の原理を弘宣された。すなわち、他力と、その内容デある二廻向の原理を開顕されたというべきである。」

 とあるところ。では、どう上二祖の教義を統合されたのか。本来は、中観の「空」の立場の龍樹菩薩と、ユガ・唯識の立場の天親菩薩であるのを、浄土教という一貫した流れのなかで、天親菩薩の『浄土論』の冒頭で、龍樹菩薩の難易二道を引用されたおこころはどこにあったのかなど、これから学んでいきい若手への宿題も含めて、みんなで味わった。

 では、往生の因とはなにか、果とはなにか。

 往相即還相を親鸞様はどう味わっておられるのか。結局、往生するとはどういうことか。

 さらには、「他利利他の深義を弘宣された」という、他利と利他はどう違うのか。これは、「証巻」の結文の言葉だけれども、『論註』(「行巻」の他力釈)にはどう示されているかなどと、他力ということについても、聖教の上で味わっていった。つまり、簡単に、他力とか、往相、還相といっているが、親鸞様が何を喜び、何をお伝えしたかったのか、ここが真宗の教義の中核になるであろう、大切なところなので、みんなに質問を交えて味わった。

 というと、とても難しいように思うけれど、院生をのぞいて、ほとんどが一文不通を自称している皆さん。「なぜ、難行・易行道と「道」なのに、聖道・浄土は「門」なんですか。」という素朴な疑問に対して、八万四千の法門と、広開浄土門といった「門」の意味や、道のこころを、それぞれの味わいとして考えたりもした。

 ほかにも、善導様のところで宿題も出したけれど、次回は、子供大会の都合で、8月24日(水)の夜7時30分から。七祖の、源信・源空さまのところから、真宗教義の核心へ。
 いまのことろ、原則、同人会員限定だけれども、どうか怖けずにお出でください。テキスト代が必要で、あとは、本願寺出版からの「浄土真宗聖典」もあればご持参ください。

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華光誌の発送

東海の宿泊法座のあと、華光誌輪読法座、伝道研究会、東京支部法座と続いたが、華光誌発送の準備もあって、新規の更新も久しぶり。

華光誌だけでなく、同封のチラシがあります。「750回大遠忌の募金」のお願い、9月の「越後聞法旅行」案内、10月の「東京講演会」(正信偈の大意)案内、あと、新刊の『後生の一大事』の広告。しかも、透明の封筒なので、「華光」の文字がハッキリ、クッキリしています。いろいろ同封物が多くて、発送は、いつもより2倍ぐらい時間がかかった。

夜には、東京支部の有志たちと、前回の東京法座のスカイプでの6名での反省会。遠方の方とも同時に話せて、ほんとうに便利になりましたね。前回の法座での2例の座談、示談での関わりについて分かちあい。ぼくの関わりの思いと、皆さんのいろいろな反応や思いが聞けて、ぼくにも苦手や課題があることが、けっこうはっきりしてきている。提案として、ミニカンのような、小人数(3名ぐらい)での分かち合いをやってはどうかという同人の声もでたが、失敗を恐れず、ぜひやってみましょう。

明日からは、高山支部法座。3月の講習会の課題で。真宗安心の諸問題の最後で、「得益論」。高山から参加者もなかったでのダイジェストで…。もしお持ちなら、「浄土真宗・聖典」をご持参ください。

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