高山支部法座
代理出席の予定外の高山支部法座。
このところ、身も心も慌ただしくて、まったく落ち着かない。常に重く、黒い何かを抱えたままに生きている。台風接近のニュース。5月に梅雨に入ったり、台風が接近したりと、天の気もかなり妙だ。最初、鹿児島行きを心配したが、どうやら高山からの帰路の方が影響を受ける気配。その場合の段取りも頭の隅においておく。
法話は3座。最初はなるべくわかりやすい話。2日目は、華光誌の輪読で、「底抜けの喜び」、そして、誌上法話で編集中の『末代無智章』についての3座。
最初は、「弥陀直々の迎え」と題して。それぞれ立場、立つ位置、つまり境涯が変わることで、同じものを見ていても、まったく見え方が変わることについて。何が見えているかよりも、どこに立っているかを教えていただことくが聞法である。例によって、見ていても見ていない硬貨の柄に始まって、「米」(こめ)を巡って、炭水化物の栄養価として科学の目で見る場合と、命あるものとして見る場合、そしてそこに仏様の命が宿るものとして見る場合では、同じものでもまったく異なってみえる。一水四見ではないが、それ以上に、迷いの目(無明)と、悟りの目(智慧)との絶対に埋まらない差があることを教えいただくのである。「南無阿弥陀仏」も、単なる言葉であったり、記号であったり、呪文のようなものとしか聞こえなかったものが、阿弥陀さまが、直々に私を迎えにきてくださった大悲の呼び声としていただけるようになった身を、ただ「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と喜ぶばかりである。
2日目。外は大雨だ。大雨警報と土砂災害の情報が流れている。F家の前の川も、濁流が流れていく。以前なら、水がつく恐れもあっただろうが、数年前の台風で氾濫して、その後、護岸工事が進んでいるので、少々の雨では大丈夫だそうだ。
うなりのたてて濁流が流れているのを眺めている。さまざまなものが流れていく。同じ水でも、命のみなもとであり、生活の糧となる恵みを施すと同時に、命を奪う凶器にもなる恐ろしいものである。いい面だけを利用したり、分かりたいと思っているが、実は、その両面、多様性をいかに受け入れていけるのか。ほんとうはそこでしか理解は進まないのだろうが、自分の立ち位置に固執して限りは、そこは絶対に届いてこない。難しいなー。
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