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法供養法座

 F家の祥月命日を兼ねた、法供養法座。昨年、7回忌はすんだので、別に年忌にあたるわけではないが、法座をもってくださって、身内の方にもご縁を結んでもらいたいということで、実現した。まさに、法供養である。

 故人のご姉妹と、限られた華光同人の方、そしてご家族と、ほんとうに少数で勤める。

 ゆっくりと一緒に勤行して、少しお茶を飲みながら雑談。それから、ご法話と、そのあとで信仰座談会も持ったので、結局、普通の法座と同じ配分の法座となった。うーん、一般の方には、もっと短時間でないと、次は敬遠されるかもしれないとも思ったが、このあたりは成り行き。

 法話は、これまでの年忌でも聞いてもらっているので、初めてではないが、まとまった時間のご法話は、1、2度あった程度。「浄土真宗」の基礎の基礎、そして「南無阿弥陀仏」のおいわれについてお話したが、門徒さんといっても、ほとんど何もご存じないような反応だ。

 いろいろな意味で、真宗のおみのりは、言葉、たとえば、仏、往生、浄土、他力、回向、悪人、念仏などなど、どれ一つでもそうだが、世間の常識とはまったく正反対、もしくは常識を超えた教えだと言っていい。

  たとえば、この法要。亡くなった方が「仏さま」なのである。そこから出発して、親族の方は、故人の冥福を祈るためであり、追悼供養のためであり、あくまで故人のために営まれている。当然、そこで、「南無阿弥陀仏」と、お念仏してもらっても、それは亡くなった人の供養に称えておられる。普通はそうであろう。当然、亡くなった方をご縁として、自分の聴聞の場だと意識された上で、聞いておられる方は、ほんとうに少ない。それが、自分のためのご聴聞だというところにまで出させていただくには、どれだけのお育てがあったことだろうか。そのうえ、それは今生の生活のためではなくて、後生の一大事に心をかけて聞かせていただくのだと、お育てをいただいてきたのである。しかもだ。自分のためだといっても、そこで称える「南無阿弥陀仏」は、決して自分の力ではなくて、如来様から回向された頂きものであり、み親の私への呼び声が先手がかかっているというところに、心を寄せて喜べるとしたら、それはほんとうに稀の中の稀だといっていい。

 外にしか向かない矢印が、自分の方に向いてくる。そしてさらに、その自分と離れないで、如来様の願いへと心が寄っていく。

 常は当たり前のように簡単にお話しているけれど、そこまでのご養育をいただくだけでも、実はとんでもなく果てしないほどの如来様のお働きがあったのだろう。それは、一座、一座のご縁の、小さな積み重ね、積み重ね、積み重ねのたまものにほかない。それでいて、そのためにどれだけの仏さまのご苦労があったのかを、邪見、驕慢で、うぬぼれの塊の凡夫には、微塵も分からないのである。だから、自分の聴聞の苦労やたいへんさを感じ、不満はいくらでもいえるのである。

 無量寿の仏様、無量光の仏さまになられなければ、つまり「南無阿弥陀仏」でなければ、無慈悲で、無知なこの私は、絶対に救われなかったということであるなー。

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