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福岡での九州支部法座

 週末は、福岡での九州支部法座。

 福岡だけでなく、鹿児島、熊本、大分から参加くださる。

 法話テーマは、講習会を少し改定した「真宗の安心・得益編」。

 2日間の講習会でもかなり飛ばさねばならない内容だったのに、今回は座談会を交えた3座で行なうので、さらに1/3程度は短縮しないといけない。それでも、教義的な仏教用語や、聖教の言葉が出てくるだけでも、皆さん身構えたり、難しいと敬遠されたり、どこか「苦手です」のオーラが感じられた。講習会ならそれなりの覚悟があるが、今回は、いろいろな方が参加しておられるからだ。それで、少々迷いつつの講話となった。しかし、ただ自分の感情や体験だけで喜ぶのではなく、どれだけの広大な御利益が、誰に、どこで、どのような形でいただいこるのかを、安心上の教義として、また聖教の言葉で、しっかりと押さ確かめながら、聞いていただいた。

 きっと難しいと感じた方もあっただろうし、前列で、十分な安眠をとって鋭気を養っておられた方もあったが、やはり、ぽくとしては、難しくても聞いてもらいたいという気持ちがあった。そうでないと、ただ、「頂いた」とか「有り難い」と喜ぶだけでは、あまりにも勿体ない広大な御利益が、他力回向のご信心の内徳として、さまざまな形で、この私の上に回向されてくるのである。

 しかも、大行であるお名号のお働きが、信の一念の端的に、摂取不捨のご利益によって、他力の回向信と、私の上に実現した時が、即得往生であり、現生正定聚・不退転の位に住し、しかも、それは臨終も来迎も待つことのない平生業成の大安心お救いであって、弥勒菩薩に同じ、諸仏に等しいとまで言われるほどの広大な御利益であると同時に、この娑婆の命が尽きた端的に、浄土往生即成仏し、しかも、この凡夫が、弥陀同体の最高の極果を得て、当然その必然として、還相回向の自利利他円満した釈尊と同じ自在な活動を得させていただくというものである。

 しかもである。そのすべて往相の証も、還相の働きも、すへてが自力の私の力を微塵も交えることのない、他力のお働きにはかならないのである。それもこれも、如来の願力より発起しているのであって、それが煩悩成就の極悪のこの私の上にこそ実現するというのであるから、もう開いた口が塞がらないほどの驚きではないか。

 行から、信へ、そして証へ、しかも現世のお救いから、当世のお救いに至るまでが、すべてが抗いきれない他力の必然の流れなのである。私の上にはたった一つ。グズグズと役にたたない自力の心を捨てて、そのお葬式をすませたら、あとは、他力の心に生きさせていただくだけなのである。

 臨終でも、来迎でもなく、その一念の端的に、「南無阿弥陀仏」となって、阿弥陀様が直々に、いま、まさに目の前にお迎えになってくださっているのである。

弥陀直々のお迎えでも、何が不足なのだろうか。

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