久しぶりの日曜礼拝。年に1度、5月の花祭りの法話を担当しているが、急に、年忌法座が入ったので、4月の法話担当になった。
子供向きなので、何か一工夫をしている。案外、少し発展させて大人の向けしたご法話が、寺院布教など受けがよかったりするのだ。
今回は、「仏さまはどこにいらっしゃいますか」というのがテーマ。
紙と鉛筆を配る。
「仏様」は目には見えない。しかし、日曜礼拝でお話を聞いてる人達は、「仏様」のことは、分かっている、知っていると思っている。でも、ほんとうにそうなのかなー。
ということで、まったく関係ないゲームで導入。
いま、日本で使われている硬貨は、7種類。1円、5円、10円、50円、100円と、500円玉だ。ほとんどの人が、毎日、見ているし、触れている。日本人なら、裏だろうが、表だろうが、ちょっと見ただけで、それが何円玉かまたたく間に分かる。みんなにみせたが、みんなよく知っていると言われる。そのことを疑う人はいない。ところで、この硬貨。すべてに、日本にゆかりの植物(花や木)が描かされていますね。名前の分からないものもあるでしょうが、大人の人は、7種類すべて、子どもたちは、簡単な 5円、50円、100円に描かれている植物を書いてください。みんなから、「エー」というどよめきが起こる。
結果は……。(皆さんも、考えてみてください)
どこかに桜があったなーとか、麦ですか(これは稲穂ですね)という答えもあったが、まともに答えられた人はほとんどいなかった。中には、「そんな花など描かれていますか」という人までもある。
では、答えを確かめてみましょう、と実際に硬貨をみた。1円や10円は、見ても特定するには答えずらいが、あとは、よく分かる。また、みんなびっくりされている。毎日、何度も何度も見て、すぐに識別できるのにね。柄まで見ているはずなのに、一度も、意識していないと、ぼくたちの眼はこんな程度なのだ。
別に、これを雑学的に知っていても、知らなくても、どーでもいいことだが、結局、ぼくたちの目は、いかに意識しないと何も見ているようで見ていないかだ。でも、その目を信じて、いつも知っている、分かっていると思いこんでいるのである。
では、仏様はどうでしょうか。仏像ではない、仏様は、この目では見えない。目に見えない、耳に聞こえないことはいらっしゃらないのでしょうか。もしおられるとしたら、どこでしょうか。書いてくださいと言って、子供たちから発表してもらった。
これが、いろいろあって(地獄から、お浄土、世界中、こころの中、いまここに、南無阿弥陀仏の声など)、また同時に子供たちの率直さに感心させられて、とても面白かった。これこそ、いくら教義的な正解を覚えても、まったく仕方がないことだ。私について離れない、阿弥陀様に遇わせてもらえたのか、どうかがなのだ。それが、どんな形で顕れてきてくださり、私に働きかけてくださっいるのかをお聞かせに預かるのである。
そこを、子供向きに、「聞いてござる、見てござる、知ってござる」にからめてお話して、最後には、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」という、阿弥陀様の直々の呼び声をお聞かせにあずかっることで結んだが、あとの分級座談の様子をきいても、なかなかしっかり聞いてもらっていたようだと思った。
法話が終了したら、夕方には、さっそく同人MLと仏青MLで法話音声が聞けるようになっていて、またびっくり。