高山支部法座~750回大遠忌の瓢箪?
週末は高山支部法座だった。
雛祭りのころからまた真冬に戻っていたが、週末は少し穏やかな陽気で助かった。
諸行無常(すべてのものはうつりかわり)
諸法無我(すべてのものは我はなく)
(邪見) 一切皆苦(この世はすべて苦しみであり)
(正見) 涅槃寂静(すべての悩みから離れた悟りの境地がある)
という、仏教の四つの旗印の中から、無常と、無我をとりあげてお話した。
冒頭は、この諸行無常と涅槃寂静の心を歌った「いろは歌」を手がかりにしながら、「いのちより大切なのは?」を問い他力回向の信心を「信用と信頼」の違いを味わいながら、なるべく平易な形でお話した。初参の方が涙を流しながら聞いてくださった。
無常は、死生学の藤井美和さんの新聞記事を読みながら、「白骨のご文」と関連づけて…。彼女の提案は、とてもたいせつなもので、共感点も多い。立場は違っても学ぶべきこと学ぶとしても、やっぱり物足りなさも感じる。生きることの延長の死であって、生死を超える、後生の一大事への言及がないからだ。その点を、白骨のご文の最後の一文で確かめておく。この一文があることで、なんのために、誰のためにご聴聞するのかがあきからになる。
最後は、 『後生の一大事』に収録される「無我について」をベースに、なぜ、仏法には無我にて候なのか。無我になれない、「おれが、おれが」の私めがけて届く、無我に成りきって成就された南無阿弥陀仏のお心を聞いてもらった。これは、ちょっと難しめだったが、ここから阿弥陀様のお心を味わった。
こんな巨大な瓢箪は始めてみた。1メートルはあろうか。しかも、親鸞聖人の絵像が描かれている!
「こんな大きくするには、何年もかかるんですか?」と尋ねたら、ひょうたんは、多年生ではなく、一年生植物なので、1年でこんなに大きくなるのだそうだ。でもここまで巨大になるには、ぶら下がってきたひょうたんの地面を掘って、育てる必要があるのだそうだ。
もちろん、こんなに巨大でも、中味は空洞だ。
「浮いたか瓢箪 軽そに流るる 行き先きゃ知らねど あの身になりたや」
たしかに今生を軽く流れるだけも大切だけどね。でも、行き先をはっきり知らせてもらわないと、寂しすぎるなー。
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