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身の幸

Img_4200 日曜日は、2月の支部法座の翌日、28日に風呂場で急死されたKさん宅でのご法座だ。といっても、質素なひとり暮らしのお宅には、誰もおられない。妹さんがお世話されて、葬儀の時のように、また同人が集ってこられた。みんなで、大声でお正信偈を唱和する。そして、ご法話は、「死生学」と白骨章から後生の一大事について、さらに、摂取不捨のご利益に預かった念仏者がいただく広大無辺のご利益(得益)について、皆さんと讃嘆した。小さなお宅がお念仏で満ちていた。

 いつも支部法座をお世話くだっていた和さん。ぼくが到着すると、「先生、道は停滞してませんでしたか。お疲れなかったですか」と一番に尋ねられて、それからお参り先のお宅の指示をくださる。子供会にしても、花まつりも、もちつきも、その裏方を一手に引き受けてくださっていたのだ。直接の身内との縁が薄く、一文不通で、からだの具合も悪く、いろいろと障がいもあって、世間的な意味ではけっして幸が多いとはいえない方だったと思うが、その念仏者として姿に、手次のお寺のご住職にまで逆に感化を及ぼし、いまもまた、多くの同信の念仏者が主のない家に集い、声高らかに念仏の声が響く中で、故人の仏法の喜びを共に讃嘆して、そのお徳を偲び会ったのである。

 ずっと、彼女とコンビを組んでいたHさん。さぞかし悲しまれているだろうと思う。それでも彼女、曰く、「和ちゃんのときは、さすがに泣きましたわ。でも、主人が死んだときは、ホッペタをつねって、唾をつけて悲しいふりをしないと、ニヤッと笑いそうだったですぞー」と笑わせておられた。そして、「それでもぜんぜん死んだという気はしませんぞ。今も一緒ですわ」、と胸を叩かれたのだ。

 ぼくも、和ちゃん、順ちゃん、瀧雄さん、一雄さん………。すでに物故者となられた同人宅にお参りをさせていただきながら、いつも遺影にごあいさつをする。彼らは、みなぼくの前を歩き、導き育ててくださった先達であり、同時にそのぼくを慕いその跡を歩いてくださった念仏者であった。その彼らの、ご法にかける思い、願いというものを、いまここに受け継がせてもらっている尊さが、身にしみてくるのだ。そして、微力ながら「どうぞ、おまかせください」と、ご挨拶をさせていただけるようになった身の幸せを思う。それは、ぼくがご縁をいただいた、ほんのほんの少数の人たちだけなのだか、その背後には、実は、無数の念仏者たちの願いが結実していて、それがお念仏の大河となって、わが胸に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と届いてきたのである。その「南無阿弥陀仏」こそが、如来様の願いであり、いのちなのである。たとえ、この肉体の姿形は滅んでも、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と他力のいのちに生きて、いま、まさに躍動している、そのお働きを感じさせていただけるのである。まことにもって大きな力をいただたものだ、としみじみお味わいさせてもらった。

 ありがとうございました。

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