華光誌の作業は終わったけれど…
4月号の「華光誌」の作業が終了した。明日、印刷所に渡して、4月1日に発送予定だ。
合わせて「後生の一大事」の校正は、延びてしまっているが、木曜日には渡したい。
さらに、講習会の準備に取りかからねばならない。自分の出したテーマではないので、かなり下調べが必要だ。他にも、仏青の原稿も依頼や、子供大会の案内文、大遠忌の案内文と、短時間のうちにやらねばならない仕事も多いのに、なかなか気力が湧いてこない。まったく心ここにあらずの状態で、身が入っていないのが、現状だ。
中には、繰り返される大震災の報道に、原発事故、多発する地震、先行きの恐怖と、目に見えない不安に影響されて、かなり精神的に不安定になっている方もあるようだ。ここにも、「無常」「後生」と称した示談の依頼、時に自殺したいほどの追い詰めれた気持ちを話される方の相談が、震災以降、毎日ある。中には、仏法の言葉を出されていても、単に言葉どおりではなく、慎重に聞いてみると、心理的な課題が隠れていることもありそうだ。じっくりとはいかないが、少しだけ関わりをもたせてもらう。
外は雨になっている。連日の春の陽気も、一転、冷え込んできた。
どうも、ブログ更新の気持ちも萎えていた。言い知れぬ無力感や不安感からだろうか。今夜も更新を休むつもりだった。いろいろと感情は溢れ、考えることも多くて、なかなかまとまった言葉にはならないのだ。
一旦、PCをOFFにしたが、しかし心が変わった。
せめて、一言だけでも更新はしておこう。
過去でも未来でもなく、今なせることは、今なしておくしかない。そうだ。明日のことは、みんな、いつもあると思いたいだけで、実は、どんな時もなんの根拠もない、思い込みだけで生きているだけなのだ。それは、仏法を聞いても、聞かなくても、その不安定な身、常に変化してやまず、滅んでいく無常の身には、何の代わりもないのだ。
そんな虚仮の世界にあって、変わらないことはただ一つだ。今も、この愚かな、無常の私の上に届いてる真実の、「目を覚ましてくれ」という親の呼び声だけだ。それを、いま、お聞かせに預かっているのである。いま、この私の口を落として、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えさせてもらうことしか、結局、ぼくには末通ったまことは、何もないのだ。それが、ぼくの頂いた、この無常で、無我であるいのちの意味である。だから、今もまた、この複雑な胸中を伴いながらも、ただお念仏と共に歩を進ませてもらうしかない。
| 固定リンク
「法味・随想」カテゴリの記事
- 修正会(2)~地震~(2024.01.03)
- 今日はご示談(2022.11.25)
- 神鍋高原・八反瀧(2022.11.06)
- 納骨法要(2022.10.29)
- 法に追い立てられる幸せ(2022.05.29)