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講習会~広大なご利益に圧倒される~

 16日の水曜日に華光誌版下を印刷所に渡し、『後生の一大事』の初校に移る。だいたい仕事は済んでいたが、前版で出来ていなかった言葉の統一などにこだわりだすと、瑣末なところにまで目が行くので、少々時間がかかった。少し遅くなったが、18日には白馬社に渡せた。これから、2校、3校まで続くが、それほど難しい作業ではないので、4月末の永代経法座に間に合わせたい。

 それか2日間と半日かけて、講習会の準備に入った。もともと父が10年前から始めたテーマで、ほんとうは最後まで完結させてもらえばよかったが、残念ながら、今回はぼくが代わりに行なうことになった。もっとも専門で勉強してたき分野ないし、自分が出したテーマでもないが、真宗の基礎なので、そのボイントだけは外さないようにした。ただ、準備の時間がなかったので、ブログもお休みしていた。

 今回は、「真宗の基礎」安心編の最終回だ。これまで8回次のよう進んできた。

「名号論」(六字釈、所帰人法などの3回)で、安心の本質を示し、

「信心論」(三心一心、信心正因、二種深信の3回)、安心の構造を示して、それが、

「称名論」(称名報恩など)で、安心の展開と、相続するさまを窺い、最後に、

「得益論」で、安心の価値、ご利益について示して、その結びとするものであった。

 あわててテキストを作り出したので、前日までで5枚目で現益まで。講義の始まる午前中に、当益に移って、最後のB4用紙で7枚目のプリントが完成したのは、開始の1時間前という慌ただしさだったが、どうにか完成することができた。

  ポイントは、現益、当益の二世に渡るご利益であるというところだが、それを現益でのご利益として、現生正定聚、即得往生、さらには、便同弥勒のお心や、現生十益、それのみならず、無量の徳を受ける現世のご利益について、いちいちにご文に当たりながら解説していった。しかもそれは、臨終ではなく、平生の時である平成業成こそが、浄土真宗の特色である。つまり、帰命の一念を発得する時の、迷いの心のお葬式、まさに臨終と思うべしのたちどころに、摂取不捨のご利益によって、即得往生、正定聚の位に、この迷いの身、煩悩成就のまま住させていただく勿体なさをお聞かせにあずかった。
 しかも、そのいただくご利益は、臨終一念の夕べに、大般涅槃を証する、必ず滅度に至るものである。その当来世のご利益として、⒜往生即成仏であり、⒝その功徳は、弥陀同体の最高極果であり、その悲用が、⒞還相回向として利他教化地の益として展開していくところを、三点に絞ってお聞きした。ここはあくまで、この身が終わった当来世のご利益なのであって、いまの穢身の上ではないことも確認した。しかも往相も、還相も、すべて他力回向のお働きによるものであって、一分も衆生、私の力が交わらないのである。

  重複となるが、そのすばらしさについて、あらためて安心編の9回の講義を通して味わうならば、弥陀の願心を発起し、南無阿弥陀仏となった弥陀の呼び声が、わが心に届き全領される、つまりハッキリと自力の心が死に、他力の心に生きる時に、それが私の口から「南無阿弥陀仏」の称名として展開する。そして、この身は煩悩穢身でありながら、この世で、正定聚不退の位に住させていただき、もう二度迷わない身と決定するのである。それで、この迷いの身が終わったと同時に、即成仏し、弥陀同体の悟りは、還相回向として働くも、これまた弥陀の本願力のお働きに依るというのである。まさに、この私の間の限りある知恵では計りえない、広大なお力に触れるばかりであった。まったく仏法に「逆」って逃げ続けている私と、その私を摂取不捨して「摂」めとろうと働き続けてくださる如来さまとが、絶対に遇うはずのないものが出会ったしまった不可思議、その勿体なさ、尊さに、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と申さずにおれなかったのである。それにしも、なんと圧倒されるばかりの広大なご利益を得るのだろうか。

 以上を十分踏まえた上で、常行大悲の働きや、現生正定聚に住すること、さらに、当益での還相回向の利他の働きへと展開する必然の流れに心をはせる時、もう少し現代的な意義について、自由人、自在人である念仏者の上に展開するのか、いかにその身に引き受けていくのかを考えてもらいたかった。「聞いた」「わかった」「はっきりした」、または「他力の働きなので」とか「ただ念仏だ」などで留まり、個人の中で完結していくのではなく、もう一つ踏み込んで、ひとりひとりに引き寄せた問題として、常に取り組んでいく。その点に関して、これが「正解」といのものを覚えてもしかたがない。まさに、ひとり、ひとりが自利利他円満し、悲智万徳が円具した、「南無阿弥陀仏」に問い、同時にその南無阿弥陀仏に、無漸無愧のこの私が問われていく、生きた働き以外にはないのであって、それが「南無阿弥陀仏」と共に浄土への歩み続けることではないだろうか。

 今回は2日間。しかもこれまでの復習もあり、夜には悟朗先生のご法話もあったので、時間内にお話するには、あまりにも盛り沢山の内容で、早い展開に、話を聞いて付いて来てくたさるだけでも、たいへんだった方もおられただろう。それに、大震災の後ということもあって、キャンセルもかなり多く、参加者が少なかったのは残念だった。それでも、皆さんが、聴講してくださったおかげをいちばん多くいただいのは、このぼくである。あまり詳しくないところを担当(自分なら絶対にテーマにださない)させていただいたおかげもあって、逆にいろいろと学び、気付かせていただいことが多々あり、自分自身も問題提起をいただいことが大きかった。ここのことろは、今回、ご縁をもらえなかった支部の方も多かったので、またの機会で、もう少し整理して皆さんに聞いていただきたものだ。

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