『インセプション』と『ソーシャル・ネットワーク』と『英国王のスピーチ』と、少しだけ…
昨年から、作品賞ノミネートが10本と倍増されたアカデミー賞。10本のうら6本までが、これから日本公開になる。いまの時点では4作品のみが一般に公開されている。そのうち、『トイ・ストーリー3』を除いた、『インセプション』・『ソーシャル・ネットワーク』・ 『英国王のスピーチ』/The King's Speechの3本を観たが、それぞれ特色があって面白かった。
なかでも下馬評の高かったのが、 『ソーシャル・ネットワーク』と『英国王のスピーチ』/The King's Speechだが、やはりというか、映画の正統的な素材が入っていた『英国王のスピーチ』が作品賞に輝いた。たしかになかなかの感動作品で、けっこうグッーとくるが、新鮮さや斬新さという点からみると、やはりこの賞自体が保守的な気質が強いということだろう。
個人的な趣味からいうと『インセプション』が、階層的で複雑な脚本でエキサイティングで、クールな作品だった。展開的には一部で破綻しているように思えたり、複雑な展開に戸惑ったもしたが、現実と夢、意識と無意識-さらに集団無意識が、三世(時間)や空間を超えて進展するストーリーは、なかなかスリリングだった。そして、あのラストがいい。
独楽は、回り続けるのか、止まるのか。
それは、観る側の意識に委ねられていた。
結局、技術系の4部門の獲得に止まった。
話題性や斬新さで評判が高かったのが、『ソーシャル・ネットワーク』だ。いま中東やアフリカで起っているジャスミン革命でも、大きな役割を果したといわれている世界最大のSNSであるFacebookの誕生と、その創立者で史上最年少の億万長者となったマーク・ザッカーバーグが主人公の人間ドラマ。映画は、巨額の訴訟の尋問場面から、Facebookが生まれ育つプロセスが、他者の証言や主人公の回想として語られていく。
冒頭から、すごいスピードのセリフで画面は埋め尽くされていく。恋人同士の会話なのに、まるで言葉と言葉の火花散る応酬のようだ。ところが、饒舌な言葉の多さに反比例するかのように、お互いのコミュニケーションの溝は開いていくばかりだ。結局、誤解や反発を生んで、最後は傷つけあうことを繰り返し、巨額の賠償金を争う骨肉の、複数の訴訟へと展開していくのだ。
けっきょく、言葉が溢れていても、聞く力が欠如しているのだろう。聞く力の欠如は、自分以外の他者への関心(配慮)の欠如でもある。すごい量の言葉が、目前の相手には届かずに、BGMのように空中に浮遊てしいる。ところが、目の前のたったひとりの大切な人へは届かない声が、世界中の何億人もの巨大なコミニケーションのネットワークが生み出し、最大限の他者への関心を生み出していく。いわば、対人的コミュニケーション下手のおたく青年が生み出した、世界最大のコミュニケーション・ツール誕生という、とても皮肉な映画だといっていい。
同時に、自由の国と思われているアメリカは、階層社会であり、学歴(学閥)社会だということが、この映画の端々からも垣間見ることができる。その意味でも、見終わったあとで、いろいろと考えさせられる作品だった。
その点、『英国王のスピーチ』は、笑いあり、涙あり、感動ありの正統な映画だ。
英国王史上もっとも内気で、王位や権力を望まなかった男に、降って湧いた英国王の座。しかも、時代はドイツとの全面戦争前夜で、英国(いや、世界中)の存亡の危機に直面していた。そんな危機の時代に、女王エリザベスⅡの父であるジョージⅥが、英国王に就任。妻に支えられ、人間味溢れる名セラビスト(実際はもりぐの言語治療士だか、役割が完全にそうだ)との出会いによって、幼年からの吃音を克服し、英国民を一致団結させる名演説をおこなうまでの真の国王の誕生の成長ストーリーであり、ヒューマニズム溢れる人間ドラマだった。
幼年期からの過酷な抑圧生活と、強力な国王である父と、優秀な皇太子たる兄に対する強烈な劣等感、さらに王族としての孤独感に、王家の血統と尊大までのプライドが、複雑に絡み合った心理的葛藤を抱えた英国王を、コリン・ファースがうまく(ごく普通に)演じていた。ある意味、これはすごいなー。彼の屈折した心理的葛藤は、人前での演説やあいさつなどの緊張した場面で、吃音という形で襲いかかり、常に苦しめることになる。そんな重い鎧で自己を見失っていた王と、身分や立場を超えて、ひとりの悩める男の善き友人として、彼と共に歩もうとするセラビスト役のジャフリー・ラッシュも、これもまた、とてもいい味を出していた。
余談ながら、このなかで敵対するヒトラーの大衆煽動の名演説場面が映る。まったく対象的な両者なのだが、実はそのヒトラーも、自信喪失で、なんとユダヤ人の名俳優に演技指導を受けていたという実話に基づく映画が、『わが教え子、ヒトラー』だ。ただし、こちらは悲劇でおわるのだか、この両者は、学界の権威でも、専門家でもない、いずれも俳優(もしくは俳優くずれ)の実践家が、これまでの指導法を超えて、人間と人間との触れ合い、信頼関係の中から生まれるという妙な共通点があったのも見逃せない。
さて、ネット社会の最前線にある『ソーシャル・ネットワーク』の現代と異なり、当時は、ラジオと記録映画というメディアしか存在しない時代だ。しかし、それだけに、より肉声の響きは意味が大きかったのだろう。その間にコミニケーション・ツールは飛躍的な発展を遂げたのである。しかし、『ソーシャル・ネットワーク』の饒舌すぎる届かない言葉と、『英国王のスピーチ』の吃音による届かない言葉には、妙な共通項がある。対照的でありながら、その背景にあるものは、不完全な対人的コミニケーションによる、怒りやいらだち、寂しさなどの一個の人としての不全感が見え隠れしているのだ。
ならば、言葉は何の為にあるのか。伝えるのは言葉なのか、それともその内容なのか、はたまたその言葉を発するその人自身なのか。どれだけツールが発達し、便利になったとしても、けっきょく、ひとりひとりの自己一致した人間性が、最後は問われているのであろう。そんな視点から、作品賞で一騎討ちを演じた2本の映画を眺めてみても、面白いかもしれない。
まあ、ぼくもメジャーな映画も観ているということで、ちょっと紹介。
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