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  東京法座が終わった。

 帰路、いつにもなく疲れていた。通夜や法座が続いたという、肉体的な疲労もたしかにある。しかし、むしろ体の奥のほうに、ぬぐいされないシミのような曇りというか、錘のようなものが、収まりきらないままに重くあったからだ。その複雑なものを、もしありふれた言葉にするなら、空しさというか、悲しみというか、無力さというのか、とにかくまで言葉に収まろうとしていない。しかし同時に、如来様のやるせない思いに心を寄せると、やりきれない思いと共に、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と次々とお念仏様が口から飛び出してくださる。

 全身を硬直させ、顔を怒らせ、絶対に負けるものかと、心を聞かずに言葉尻だけをとらえ、体中で抵抗されて、ますます心を硬くされていかれる姿は、まさに如来様に対して反逆し続けている私そのものである。「若し生まれずんば、正覚を取らじ」と、私の往生のために自らの正覚をかけてくがさり、そして「汝、一心正念にして直ちに来れ、われよく汝を護らん」と、「早く、早く」と呼び続けて下さっている阿弥陀様の切ないお言葉は、遠いところにをあるのではない。南無阿弥陀仏の響きとなって、いまここに届いてる。いま、まさに聞こえるのにである。

 30数年のご聴聞。文字通り命がけで、仏法を求め、世俗の欲望を抑え、自らの心を殺し、固執する教え以外を破邪することに心血を注ぎ、けっして修めきれない善を修めようと努力し-しかもそれは捨てものの役に立たないものでありながら-いつかはその自力が廃って仏智満入する宿善が到来する時があること信じて邁進されて続けているのである。よしんば不審があったとしても、けっしてそんな疑問を口に出すこともせず、自らの心を殺して、常に前向きに頑張り続けてこられた。19願から20願、そして18願の真実信心の世界に転入するためにである。そんな方には、根拠と称する不毛な言葉のやりとりでなく、ぽく自身の聞かせていただいた愚身においてはかくのごとしとというアプーロチは、訳の分からないことで、きっと腹立ち一杯であっただろう。ただ、せっかくお念仏の御教え求めておられる御同行であある。一刻も早く南無阿弥陀仏のみ教えに会っていただきたいというだけである。もちろん、その誠実な熱情のすごさは人間的には尊く、頭がさがる思いはした。しかし悲しいかな、命懸けは凡夫の方ではない。如来様が命がけで願ってくださっているのだ。その願いは言葉の世界に留まらない。躍動し、法界に満ち満ちている命そのものの南無阿弥陀仏として働いてくださっている。だから、凡夫の小さな救済の予定概念に收めようと努力しても、どれだけ人生をかけ、命懸けになろうとも、けっして収まることはないのである。

  だから、「ダメなものはダメ」「落ちるものは,落ちる」-そうありのままにお聞かせに預かることからしか始まらないのだが、この方向転換こそが難中の難。

 実は破邪顕正の剣は、外側の教えや組織を打つ為に振りまわすのではない。まさに、「直ちに来れ!」と.本願招喚の勅命に、逆らい、誤魔化し、抵抗し続ける、この私の自力の迷心そのものを厳しく破ってくださる以外にはなかったのである。

  横超の直道、直入の機こそが、第18願信心往生のおこころである。これまで、もう十分自力で頑張り、抵抗されてきたのだ。そのお姿は、阿弥陀様は十分に分かりきってくださっている。ならば、いつまでも横出の、廻心の機である19願の自力方便・仮の世界に留まっていないで、一刻も早く、本願一実の南無阿弥陀仏ひとつに飛び込んでいただきたいのだ。たった一言で済むように、易く易く、ひたすら易く仕上げてくださったのである。

   どうぞ、どうぞ、お願いします。もし、いまは伝わらなくても、ぜったいにお捨てになれない尊い願いがかかっております。

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法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

読むのが辛かったです、体の奥に硬さがよみがえってくるような

絶対に負けるものか
世俗の欲望を抑えて
刃向かいつづけ、刃向かっているとも夢思わず、全く自分が見えない私
解るように人に説明することも伝えることもできません、それは頭でっかちだった反動なのか年のせいなのかわかりませんが。でもわかってほしいです。逆らおうとする、逆らっているからますます聴聞させて頂きたいです。

投稿: relax | 2011年2月22日 (火) 09:43

 法座ではお世話になりました。ありがとうございました。
 雪山童子がその先にある真実を求めて羅刹を上座に、自らはその前に平伏し頭を深く垂れて教えを乞う。
 ここがなかったら仏法はザレごとになってしまうなぁと味わいさせていただきました。

 師の教えを命をかけて守っていた姿勢には驚かされました。でも振り返って、師と出会った縁を思うとき、可哀そうにも思え、また犠牲にもなっていることを思いました。
 師とのめぐりあわせを思わせられました。善き師のご縁に出逢って一日もはやく目覚めて喜ぶに身になっていただきたい人ですね。

投稿: | 2011年2月22日 (火) 12:52

有りがたい人が現れましたね。
ぜひお話ししたいです。
ご紹介お願いします。
かりもん先生
お疲れさまでした。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年2月22日 (火) 21:20

ほんとうにほんとうに、
ただただ、御導き一つであったと、
泣かずにはおれません!
どうしてこんなことが……
勿体ない!勿体ない!

投稿: Moz | 2011年2月22日 (火) 22:55

relaxさん>体の奥の固さが蘇ってくるようで、読むの辛かったんですね。ぜひ、今度は組織や宿善のためではなくて、大悲を広大さをお聞かせあずかるためにも、自分の喜びのために人にもお伝えしていってほしいですね。日頃の喜びでいいので、味わいを口に出していくだけで、聞法の意味が変わる気がします。

名無しさん>そうですね。ご因縁事とはいえ、いろいろと複雑だったことでしょう。でも、結局は、自分ひとりところで聞いていくしかありませんからね。この先は、面々の御計らいです。

とくよしみねさん>そうしたいのですが…。普通に考えると、もうぼくとのご縁はないでしょう。しかし、それは凡夫のはからうことではないので、どこで、またご縁が結ばれるかも分かりませんから、その時は、ぜひにでも。

Mozさん>同席されていたお嬢さん。「眠たくならない、こんな退屈じゃない座談会は初めて。それに父がこの場いたら、ケンカになっていただろうから、(いなくて)よかったです」との感想が、緊迫した空気の後で、なんとも面白かったです。

投稿: かりもん | 2011年2月22日 (火) 23:30

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