いろいろあった3日間(1)東海支部法座
三連休になった3日間。雪も降って寒い日が続いた。
金曜日の岐阜での東海法座も、用心して1時間早く出発。いつもとは違う場所に雪が降っているらしくて、浜松付近で新幹線が遅れたりしている。名古屋もけっこう積もっていたが、逆に岐阜はまったく降っていない。出にくいなかを、皆さん頑張っておいでくださった。歎異抄2章の「身命をかえりみず」をテーマに、修行者と羅刹(雪山童子)の話題。このテーマで話すのは3回目だが、その度に随分、異なってくる。皆さんに質問を交えたので、その答えによって、話題が変わっていくからだ。今回は歎異抄2章が中心で、「信用と信頼」や「いろは歌」の詳細には触れなかった。
導入の質問は、「命より大切なものはありますか」ということに、ハッキリと「ある」と答えられた3名が、積極的に答えてくださったのが、とてもよかった。まずは、「子供や孫のためなら命は惜しくない」という方があった。たしかに、そう考えても不思議ではない。では、「横におられる奥様ではどうですか」と問うと、「エー」としばらく間のあとで、「はい」の返事。「それでは、ご兄弟ではどうですか」「兄弟の子供たち-甥や姪ではどうです」「お隣のお子さんではどうですか」と問うていくと、順列と差別が起っていくる。結局、純粋なようで、この心も自分中心なのだ。同時に、その決意もその都度、その都度の自分の思いで変化していく。「子供のために命を捨てる」と思える時もあれば、その子供を怒鳴りに叱ったり、疎ましく思う時もあるのだ。結局、縁に触れ、おりにふれて、コロコロと変わっていく。それは、次ぎの方が言われた、「自分の思い・こだわり」(時に自分の命さえも奪っていく)が大切、つまり「我」の正体である。「自分」の子や孫なので可愛いのであり、それもまた自分の思いどおりにならない縁がおこれば、憎んでいくことにもなりかねない。結局、わたしの心は末通っていくものなどないのであって、それが迷いなのである。最後の方は、「仏法を聞くことだ」と言われた。たしかにそう思われているのだろう。しかし、わたしの本心を叩くとどうか。これもまた縁に触れたらコロコロ変わる。少し重い病気になれば、聴聞よりも、絶対に病院に走るのだ。
つまり、正解になることより、虚仮不実で、わが命に執着しているオレがの心を見せていただくことが、聞法ではないか。その意味で、この導入だけでも十分に味わえた。結局、聞法の問いは、正解を覚えることではなく、それぞれが自分の答えを中味を掘り下げて味わい、仏様の鏡に映してみなければ意味がないのであろう。
座談会も二グループに分かれたが、聴聞歴の浅い同人の娘さんが、自分のこととして味わってくださっていて有り難かった。さらに、その姿に触発されて、これまてお声を聞いたことのない方が、かなり自分の本心のところを開いてくださったのも、尊かった。「心臓が飛び出しそうです」とおっしゃったが、どんどん飛び出したらいい。この歎異抄の親鸞さまは、「親鸞におきては」「愚身において」と、自分の腹をかっさばいて、まさに腹蔵なくお伝えてくださっている。
法座のあとの懇親会も楽しかったが、ちょっと飲みすぎた。寒いホームで、遅れた電車待っていたからか、帰ると頭が痛くなってきた。それでも、最低限の明日の準備がもろもろと。
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