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見てござる 聞いてござる、知ってござる

 おタイちゃんに初対面したあと、夕方にはTさんと、三重県の名張市での同人のお通夜に列席した。まったく地の利のないところで、車での時間が読めない。遅れないように、近鉄特急を乗り継ぐことにしたが、それでも2時間は必要であろう。奈良県宇陀市との県境にある斎場だ。 

 これはあくまで凡夫の凡情ではあるが、変わり果てた故人の亡骸に接し、突然、一家の主を失った家族の悲しみに触れ、なかでも年老いてお母様にお声をかけると、こちらもこみ上げる思いで一杯になってきた。しかしそこでも、皆さんと、「仏法聞けよとの厳しいご催促ですね」と、共に語り会い、お念仏申せる法友であることが、なんとも有り難い。同じ村の檀家さんたちであると思うが、大ホールでの通夜でありながら、多くの人が、お正信偈を唱和し、なんの指示もないのに、大声で称名念仏をされる姿がなんとも尊く思えた。こんなことでも、日頃からのお育てがあればこそだ。当たり前こそが有り難いのである。

 短いが、自然体の味のあるご法話で、訃報に接して、日頃の無常というお示しが簡単に飛んでしまって驚く凡夫の拙さと、同時にその私を常に、「阿弥陀様は、見てござる 聞いてござる、知ってござる」という如来のお働きをやさしい言葉で。

 そうだなー。私が知らないだけで、私を、いつも見守ってくださり、私の苦悩する声を聞いてくださり、そしていつも私のことを知っていてくださっている御方がある。自分でも、自分のことがなにひとつ分かってないのに、そんな迷いきって痺れている私のことを、何でも知ってくださっている阿弥陀様に出会わせてもらう以外に、この娑婆で据え通っていくものはなないのだ。

 何度も耳慣れになるほど聞いてきたことだが、これまでは、すべてが見通されている怖さばかりに思いが寄っていた。その意味では、初めてお聞かせに預かるようだった。

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法味・随想」カテゴリの記事

コメント

「阿弥陀様は、見てござる 聞いてござる、知ってござる」って易しい言葉でいいですね。阿弥陀様の優しさも感じられます。お見通しだからこそ、安心して日暮らし出来るような気がします。

投稿: | 2011年2月19日 (土) 10:12

さっきのコメント名前入れ忘れました~。

投稿: わらわら | 2011年2月19日 (土) 10:13

「見てござる、聞いてござる、知ってござる」は、例の会では「人が見ていないから聞いていないから心の中だから分からないだろうから悪ばかりやっていても、仏様は見聞知のお方だから全てお見通しだ、だから人相手の求道ではなく仏様相手の求道をしなさい、人が見ていなくても悪を止めて善をしなさい」という話で出て来ます。
それはそれで素晴らしい事だと思いますが、人が見ていないと(見ていてもですが)悪ばかりしか出来ない泥凡夫が私の姿なのですね。
歩いていて、人が見ていないと信号無視をする、そんな心しか持ち合わせていません。
ある浄土真宗のお宅で、この「見てござる聞いてござる知ってござる」の掛け軸があり、阿弥陀様が私を見守って下さっておられるという事を知りました。
何もかも逆さまの考えしか無い私ですね。

投稿: 淀川コナン | 2011年2月20日 (日) 23:32

淀川コナンさん、「何もかも逆さまの考えしか無い私です」そうなんですね。

ぼくが、このことを恐ろしいと感じたのは、「仏様は見聞知のお方だから全てお見通しだ、だから人相手の求道ではなく仏様相手の求道をしなさい、人が見ていなくても悪を止めて善をしなさい」といわれても、(まあ、ぼくには、このおすすめが素度らしいこととは思えませんが…)、万が一、身や口のレベルで真似事(賢善精進の相)ができたとしても、意(心)はどうしょうもないからです。仏法は、身や口の反省ではなく、意の内省でしょう。実のところ、ぼくの心には、殺人も、強盗も、強姦もなんでもありなのに、外側を飾って誤魔化そうとする。いい子になろうとする。善人づらしようとする。それをなんとも思っていなかったりする。その麻痺までお見通しだといわれたら、もうびっくりするしかなかったからですね。合掌しながら、心の中では仏様に舌を出して、罵倒しているところまで、すべてを見通されている。有り難いというより恐ろしかったですが、同時に、ああ、それだからこそ有り難いんだなと思ったわけです。

投稿: かりもん | 2011年2月22日 (火) 01:37

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