『玄牝 -げんぴん-』
12月に『うまれる』という、出産にまつわるドキュメンタリー映画を少しだけ紹介したが、http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-fc25.html、続けて、 河瀬直美監督の『玄牝』-げんぴん-をみた。これはかなりのお勧め作品だ。
カンヌでグランプリを授賞してしまって(?)、一般の知名度が急上昇したのだが、もともと独自の世界観のある作家型の監督なので、これまでの作品は、この種の映画を見慣れないない人には、かなり分かりづらい面があると思った。実際、映画館での声や反応もそんな感じがした。そん中で、本作は分かりやすい上に、彼女の力量もなかなかたいしたものだと、ぼくのような素人でも唸る作品だ。
自然出産のカリスマ的な産婦人科医を取り上げたドキュメンタリー。この手の対象を取り上げると、どうしても大病院の儲け主義や世間の常識・医療的な出産の誤りを糺して、無批判に自然出産を讃美しがちになってしまう。しかし、ここでは、単純な讃歌でも、出産ドキュメンタリーをも超えて、ひとりの苦悩するカリスマ医師の人間としての生きざまを映し出し、生と死という普遍的で根源的なテーマを、観るものにも問いかけているのだ。もともと彼女のもとへの依頼の企画から起こり、監督と被写体である産婦人科医がお互いを認め合ったことで自然と実現したそうだが、そのことが適度な距離感をうんだのかもしれない。それでも、何気ない生活の中の、瞬間、瞬間を見逃さずに、切り取り收め撮っていく力量は、まさに天賦の才だ。
出産は、母子共に命懸けなのである。ところが、科学や医療の発展は、命は常に生と死が背中合わせにあるという自然の摂理を超えて、出産で母子の命が助かるのが当たり前だという錯覚を生み出してしまった。もちろん、安全、安心は大切なことなのだが、それが妊婦や胎児を中心ではなく、医療側の安易な医療行為による出産が当たり前になってしまった。つまりは、いかにリスクを減らすかが腐心されるのであって、一つの命が誕生する瞬間、その産む喜びを第一とは絶対に考えていない。だから、通常出産での危険やリスクの説明ばかりでは、妊婦の不安は募るばかりだ。
そんな中で、生と死に正面から対峙し、自然のなかで、ほんとうの出産の喜びを第一としよという産院がある。愛知県岡崎市にある吉村医院。この世界では有名である。医院に併設した昔ながらの茅葺きの日本家屋で、妊婦さんたちに昔ならがらの家事を分担してもらって安産を目指すというものだ。臨月のお腹を抱えて、(スクワットを模した)雑巾がけ、マキ割り、畑仕事などを行なう平然と行なう姿は、常識的な目からはちょっと異様にも見える。もちろん、一昔前とは違って、いまでは、適度な運動が常識にはなっているが、それが昔ながらの日常の家事の中にあるというのてある。もちろん、予定日を過ぎたからといって陣痛促進剤などは使わないし、出来る限りは医療介入も行なわない(もちろん、必要な時は行なう)のである。
この医院に通う人々は、みな意識の高い人達が多い。しかしながら、その事情はそれぞれ異なる。普段は大病院で医療行為をする女医が、妊婦となりこの医院を選んだことに対する監督の切り返しの一言が面白かったりする。また、楽しそうに集う人達に馴染めずに寂しそうな妊婦もいるが、その理由も複雑だ。過剰な医療介入の出産がトラウマになって悩む人もいる。そんなさまざまな人達を、巨大を磁石で吸いつけていくのが吉村正院長である。
どの世界でもあることだが、その世間の常識的な声が圧倒的に支配する世界で、少数派を貫くことはたいへんなことである。異端のレッテルを張られ、多数派からは疎ましく思われ、時には中傷や批判も受けていかねばならない。そうであるからこそ、熱烈な賛同者も生まれ、その賛同者がつながりコミニティーが形成されることになる。ところが、そのコミニティーが閉鎖的になる危険がある。別に排他的なものでなくオープンなものであっても、メンバーの意識が高く熱心さに触れることで、逆に怖じ気づいたり、引いてしまったりもするということ。また、その生きたアドバイスが、いつのまにかマニュアル化したり、HOW TOとして受けとられていくことの危惧もある。それに、カリスマ的な中心者が、あまりにも超越しているがゆえに独裁者となっていく恐れもあるし、さらに、何かを犠牲にしなければ、これほどの志しをなし遂げづらいということである。
この映画の面白さは、単に出産場面や、彼の理念に貫かれた仕事ぶりを撮るだけでなはない。この個性的で、戦い続ける吉村医者に共感している助産師たちの意識や技能の高さと、しかしよくも悪くも吉村医師が中心であるがためにおこる葛藤や彼女たちの、上記のような本音。また、常に命懸けで立ち向かうからこそ生じる齟齬は、スタッフ以上に身近な家族に上に現れてくる。父の愛情に飢えた娘と、他人の妊婦に命懸けに接してがらも、わが娘には冷たく不器用に接する父の苦悩が、ぶつかる。そして、彼自身の涙ながらの内面の声と、何気ない日常の横顔に映し出される内面性など、さまざまな見どころがあるのだ。まさに生死に関わる援助的な営みは、高いスキルや専門知識と共に、、最後は、その人自身の人間性、生死観やその理念が、正面から問われる行為ということなのであろう。
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コメント
先生のブログに刺激されて、10年ぶりくらいで映画館へ足を運び、至福の時を味わっていたのもつかの間、そのうち時間も予算も余裕がなくなって来て、すっかり足が遠のいていました。
この映画のパンフレットは手にしていて、行きたいな−でもな−と揺れていたときにこのブログ。
決めた、観に行こうっと!(普段は真面目な勤労主婦、このくらいのささやかな贅沢は許してもらおうっと)
投稿: relax | 2011年2月10日 (木) 12:40
relaxさん、そちらでも上映されているといいのですが…。娯楽作品ではないけれど、なかなか面白い。タイトルは、最初、(玄)黒い牝牛だと思っていたけれど、ぜんぜんちがっていて、老子にある「谷神は死せず。是を玄牝と謂う。玄牝の門、是を天地の根と謂う。綿々として存ずるが如く、之を用うれば勤せず」から取られたそうです。連続無窮の命の流れでしょうか。まあ、これは映画のテーマでもあります。
投稿: かりもん | 2011年2月10日 (木) 18:20