救急車
報恩講終わりました。
いま新潟まで夜行の寝台列車で戻られるFさんを、十条駅までお見送り。
かなり冷え込んでいるが、雪のない景色に驚いておられる。法座中には、雪もちらついてかなり冷え込んだけれど、道場は熱気で、冷房が入るほどだった。
ゆうこも、無事に全国区(?)法話デビュー。緊張気味で、聴衆までも最初はドキドキと、肩が凝ったようだけれど、落ち着いてはっきりした大きな声でのお話。修士論文の証空上人との関係で、観経の除苦悩法のところを、彼女自身の体験を通した内容。皆さんからも温かく迎えてもらえたようですね。
法座とはまったく関係ないけれど、夜の分級座談の反省会が終わり入浴して、遅めに懇親会に合流しようとしたら、女性の部屋が異常な雰囲気。部屋から、Tさんが走って出て来られる。「救急車を呼びます」という話に、びっくり。高齢の女性が、就寝直前に、急に意識を失われて倒れられるトラベルが発生。名前を呼んでも返事はなく、血圧もかなり低下。幸いに医療関係の方もおられたので応急処置と、すぐに救急車が呼ぶなどの適切な処置がなされた。お友達が付き添って、すぐに病院へ。病院に搬入されると、意識も戻ってこられたそうだが、救急車で運ばれたことも、病院にいることも、まったく理解できなかったという。今回は、緊急事態ではなくて、すぐに戻ってこられたのだが、異常も発見されて、帰宅後に、精密検査が必要だそうだ。
最近は、法座中に救急車で運ばれる人がたまにある。高齢者というわけではなくても、脳や 心臓に持病をお持ちの方もおられる。ところが、教室の懇親会会場は、みんなワイワイと賑やかで、誰もサイレンを鳴らしてきた救急車に気付かないほどの盛況ぶりで、このことを知らないままお帰りになった方もあるかもしれない。
今回は、翌朝に道場を覗くと何ごともなかったように、普通に勤行しご法話を聞いておられので、またもびっくり。気を失っておられたのだから、当然だが、ご本人は、回りの騒ぎをまったくご存じなくて、キョットンとされておられた。
結局、死んでいくときも、こんなことなのかしれない。
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コメント
二日間ありがとございました。
この救急車事件を目の当たりにしたのですが、翌朝、御当人が美しく身支度を整えられ、静かに座っておられる姿に強い違和感を覚えました。が、先生のコメント読んで謎がとけました。
ご本人は気を失っていられたのだから当然。
知らないこと、自覚しないこととは、こういうことなのですね。
教えていただかなければ、自分の姿は見えない。
お同行さんを通して、こんな簡単なことを改めて教えていただきました。
投稿: カイババ | 2011年1月11日 (火) 09:43
2日間 ありがとうございました。
自分の知らないところで、どれだけの
お世話があるのか、阿弥陀様から、昔からも
今も、どれだけのご苦労があったのか、
ほんとに教えていただかなければ
全くわからない自分です。
周りのかたからも、本当に多くのお世話を
いただいているのを、ただ奪い取っているだけの
自分に、申し訳なく思います。
銭湯から帰ってきたら、救急車が止まっていたので
びっくりしました。
投稿: 西岡 長男 | 2011年1月11日 (火) 12:19
西岡 長男さん、
そして、カイババさん、
お当番、お疲れさまでした。反省会まで残っていただき、ご苦労せまです。
そうなんですね。感じるとか、分かっているといっても、この私は意識をひとつを失っただけで、どれだけ迷惑かけようが、お世話になろうが、何もわからなくて、無いのと同じことなんです。お母さんのお腹の中のことでも、0歳のころのお手間もまた同じ。親にどれだけご苦労があろうとも、私にその実感なんかあるわけなんじゃないですか。ましてや、そんな頭で、仏様のご苦労を分かると自惚れてるんですからね。そこを懇ろに教えていただいて聞いていくしかないですね。
投稿: かりもん | 2011年1月12日 (水) 00:13
報恩講では浴びるように法に会い南無阿弥陀仏を称えさせて頂いた。今年の寒さは格別、それなのに法座会場は冷房が欲しいほどの熱気。肌着を脱いだりしてそれに対応するほどだった。
法座会場では先生方の口から南無阿弥陀仏を称えて欲しいどうかどうかお願いと「南無」の心を聞かせてもらった。それは弾丸が飛び出してくる程のものだった。
その中から、なむふにゃふにゃあ~あ~ま~ま~ふゎあふわ~ななならりらりきゃきゃななふうふうきゃきゃ、、、、、、、と可愛い声が聞こえて来た。その声はなむあみだぶつ なむあみだぶつ と聞こえた。可愛い念仏にきこえた。あの小さい赤ちゃんが称えて
る、小さい赤ちゃんだからとなえてる、赤ちゃんでも称えてる。
尊い仏様のお名前だもの年齢に関係ない。良いご縁に会わせてもらった。なんだか得した気分。私の耳には聞こえた。
赤ちゃんの若い両親も子供に聞いてもらいたいの願いなのだろう。親心(仏心)だ。小さい子どもの声だけでも念仏は聞こえる。どこでも仏様の心の中である。仏の声はどこでも聞こえる、私が
称える声が仏の声だもの。
身に余る念仏に会ったからか少し疲れた。先生方や皆様へのお礼がこんな形になって申し訳ないです。おやすみなさい。
投稿: ばば | 2011年1月12日 (水) 23:25
ばばさま>ようこそ。
なるほど、親の呼び声に、応える子の声が尊いですね。ぼくたちは、赤ん坊より知恵があると自惚れてますが…。
投稿: かりもん | 2011年1月14日 (金) 01:18