修正会~いろは歌~
元旦。
大晦日は、少し夜更かしで、遅めに起床。慌てて準備をして、京都に下宿中の一人暮らしの仏青の諸氏をお招きする。仕事の都合で京都に残っているのなら、少しぐらいはお正月気分を味わってもらえばいいと、ここ数年続いている。お雑煮やお節料理でお持てなしして、5年ものの古酒(これは美味だった)と、金箔入りの焼酎(日本酒はしているけど、焼酎は初めてだな)をお屠蘇がわりに飲んだ。今年は、全員男性だった。しかも、4名とも長身の大柄なイケメン(例外もあるか?)が集まった。ほんとうなら、ゆっくり飲みたいところだけれども、この後は修正会があるので、お酒も、口をつけた程度だ。
心配していた天気も回復して、昨日の雪から好天にめぐまれた。おかげで、広島や石川、神奈川と、遠方からの参加もあり、子どもさんたちも入れると、50~60名のお参りがあった。
昨年のことがあったので、勤行は、初めてゆうこと二人で担当することにして、父は法話に専念してもらった。一同で、お正信偈と現世利益和讃を華光節でいただく。元旦に、皆さんと一緒に、尊前で声に出して勤行することだけでも、尊い気分になるから、不思議だ。「御文章」は、初めてゆうこが拝読した。
事前に、ご法話は短めで、「いろは歌」の話をすると聞いていた。
「いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす」
「色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず」
この「いろは歌」 は、『大般涅槃経』 の 「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」 という「諸行無常偈」とか 「雪山偈」などといわれる偈文の意を表しているとも言われている。
無常のところで、死-一期無常だけでなく、刹那、刹那の変化についてやまないことが話題になった。私のこころはどうだ。人により、時により、状況により、ちょっとした言葉やメールの一文でも、また人の態度や雰囲気に接しただけで、私のこころは、もろくも移ろい続け、瞬間、瞬間に変わり続けていくではないか。そんな頼りなく、末通っていかないものでありながら、虚仮そのもののわが心を、なぜか真実だと自惚れ、その心を頼りにしながら、真実そのもののご法を、その心で計らって聞いているのである。まさに轉倒しているのが、凡夫の聞法である。
「有為の奥山」とは、有為は無為に対して、無明煩悩の世界、有為転変の世界、しかも奥山で、その迷いどこまでも深く辺がない。その迷いの世界を、明日でも、明後日でもない、今日-まさに今、迷いを超えて離れさせていただくならば、浅はかな夢から目が覚める、酔いが覚めて、もう二度と迷い(無明)の世界には戻らない身となるのである。この今日迷いを超えて、目覚めさせていただくことこそが、聞法の要点だといっていい。
(ちなみに、「いろは歌」は導入の部分のお話で終わったので、これからの地方法座で、もう少し詳しくここをお話しようとも考えている)。
結局、「いろは歌」を導入に、メーンは、お正信偈の「帰命無量寿如来」の「南無のお心」へと展開。元旦から、悟朗先生の「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の説法獅子吼に、お屠蘇気分でウトウトしていた人達も、目を覚めさせられたか。ああ、やっぱり「いろは歌」通りの内容だったー。「有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」である。
無明の闇に沈んでいるとも、迷いに酔っているとも微塵も思っていない、この重病人の私を目掛けて、南無阿弥陀仏が雄叫びをあげておられるのだ。
「目覚めよ! 目覚めよ! 目覚めよ!!」と。
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