『その街のこども』~劇場版~
あの阪神・淡路大震災から16年目を迎えた。
12月に、京都シネマで『その街のこども』~劇場版~を観た。ちょうど昨年、15年目のこの日に、NHKで放送された番組が、劇場用に再編集されたものだ。映画がテレビ放送されるのは当たり前だし、人気ドラマが劇場用映画として登場することも普通の話。むしろ日本映画でヒットするのはこのパターンしかない。しかし、これはちょっと違う。同じものが、映画用に再編されたとはいえ、劇場公開されるのだがら、かなり異例のことだ。映画化が前提で作製されたのではないだろうから、それだけ番組の質が高く、評判もよかったということだ。特に、渡辺あやの脚本が高評価を受けた。
もっとも、ぼく自身はテレビ放送さえも知らなかったので、この映画で初めて知ったが、単なる悲劇のお涙頂戴ものではなく、リアリティある切ない苦しみと、再生への芽生えがうまく描かれているように思えた。
15年の歳月で薄れていく想いもあろう。しかし、大災害のたらす悲劇は、肉体的な痛みや経済的な損失だけではなく、人間関係をズタズタにし、どれほど年数が立っても癒えることのない心の痛みを残すこともあるのだ。たとえ表面は被害を受けなくても、生き残ったがゆえの深い傷跡が、その後の人生を引き裂いていくこともある。
1月16日の夜。偶然、新神戸駅に降り立った二人が出会う。実は、主演の森山未來、佐藤江梨子の二人も、実際に震災を体験していているのだが、映画でも、震災時の年齢のままエピソードとして、15年後の姿を演じている。
ところが、同じ震災の体験を持ち、いま共に東京で暮らす二人だが、その思いはまったくかみ合わない。イライラするような溝をかかえたまま、不器用なコミニケーションを交わすうちに、なぜか1月17日早朝の東遊園地公園での慰霊の集いを目指して、道連れとなっていく。そして、辛い想い出の夜の神戸の街をひたすら歩く道程は、記憶の彼方に封印したはずのリアルな悲しみが浮き彫りとなる厳しい道行きともなった。そこには、現実と向き合うための辛い葛藤があり、または無いものにしようと目を背けてきた悲しい想い出が溢れ出す瞬間があった。車で通るのではなく、あの日と同じように、2本の足で街を歩くことで、子供心に受けた深い心の傷が、青年となったいま記憶の彼方からぎこちなくも浮き彫りになってくる様子が、うまく描かれていた。
理不尽にも幸せを引き裂かれ家族があり、生き残ってしまった悲しみがあり、震災後の復興に狂った親の悲しい業に巻き込まれた弱々しい子どもの姿は、同時に、不器用でも、その現実にしっかりと向き合おうというひたむきさが力強く宿っていくのだった。出会いによって、たとえいますぐには受け取れなくても、次ぎの一歩を踏み出す萌芽はしっかりと育っていたように思えた。
今年の東遊園地公園に、彼の姿はあったのだろうか。
たとえ、今年はなくても、いつの日が、必ず彼はその場に立っているだろう。
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