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岡山仏教(家庭)法座

ご縁があって、岡山市での家庭(仏教)法座にお招きを受けた。

倉敷、福山、そして美作の誕生寺など、何度か岡山を訪ねたことはあったが、岡山市に入るのは初めてだ。岡山駅も、京都から西へ向かう時に、いつも通過するだけだった。

というわけで、待ち合わせ場所は、もちろんここ。

Img_3886岡山と言えば「桃太郎」。写真には岡山名物の「祭り寿司」の看板も収まった。

会場は、駅から車で10分弱の地域の公民館。

開始まで少し時間があったので、付近をImg_3890散策。あるいていけるところに、e旭川が流れ、日本三大庭園のひとつ「後楽園」や竹下夢二の美術館もあったが、時間がないので、今日は外から眺めるだけ。岡山城も見えている。

さて、ここは華光の集まりとはまったく関係ない。そもそものご因縁は、宍粟市の寺院との関係だが、施主はお寺さんではない。ぼくと同世代の寿司屋にお勤めの在家の方だ。それが、仲間のImg_3889お坊さんから、「法座を開け」と、何度もうながされて、組織も、資金もなにもないなかで、個人の力だけで町内のおばちゃんたちを集めて、コツコツと家庭法座をひらいておられる。仲間にお寺さんが多いとはいえ、法座の開催をすすめられる僧侶も偉いし、それにうながされて自費で法座を開き、時には自分でもお話をされるというのだから、これもまた尊いことではないか。Img_3894

報恩講なので、なんとチラシまで作っておられて、「どなたでもどうぞ」と広く募っておられるが、ご縁のある定番の人が集まってこられた。もっとこじんまりしているかと思ったが、結局、14名の集いとなった。

法座は隔月で、1月は報恩講だそうだ。講師も、僧侶ばかりではない。昨年の報恩講には、事務所のTさんも講師として招かれている。日頃は、仲間の僧侶方やお友達が、順番にご法話や感話をされている。だから、今Img_3888_3夜の参加者も、近所のおばちゃんが半分、お寺のご住職方が半分というところ。ご法話をする側としては、その焦点は難しい。専門的な方と、ほとんど日常勤行の意味も知らないような方が半々おられるからだ。

こういう時は、皆さんにボールを預けることにする。なぜ、このような集まりをもたれているのか。どうして皆さんお参りにこられたのか。ご法話を聞いてどう味わっておられるのか。おばちゃんたちの声を聞きながら、選んだご文は、『歎異抄第2章』の、
「身命(しんみょう)をかへりみずして、たづねきたらしめたまう御こころざし、ひとへに往生極楽の道を問いきかんがためなり」
というところ。この世に命よりも大切なものがあるのか。なぜ、往生極楽の道を問う為に、命がけで訪ねてこられたのか。そして、皆さんは、何をお聞きにお出でになったのか。

そこから、「後生」の一大事の解決ということに焦点を当て、何を信じさせてもらうのか。なぜ、法然上人の騙されて地獄に落ちても後悔しないという「信」とはどういうことなのかを、先日の「信用」と「信頼」を例にし、問いかけながらお話をしたが、けっこう反応があった。

法座の最後は、一口ずつだった、車座での信仰座談会。せっかく法座をもられるのだから、これからは、聞き放しではなく分かち合う信仰座談会まで進めてもらいたい。皆さん、けっこう率直にお話くださって、楽しかった。もちろん、華光に集うに人達に比べると、まだまだご聴聞の焦点は定まってはいないが、同時に継続した法座のなかで、調熟のお育てを受けておられることも感じられたからだ。

終了後は、僧侶の皆さん方との打ち上げ会。酒豪揃いでよく飲まれていたが、ぼくは最終の新幹線で戻ってきた。その席でも、個人の施主で法座を続けていくことは、仕事も厳しい不景気のいまは、経済的にはかなり苦しいのだという話がでた。確かにそうだろう。

しかし、法事や葬式ばかりに専念して、法話や法座を持たない真宗寺院もある中で、浄土真宗のひとつの原点があるような気がした。ほんとうに伝えて行きたいもの、聞いてもらいたいという願いに動かされて、ご法座がもたれて、しかも、その願いに共感する僧俗を超えた仲間がおられることは、何者にも変え難い財産ではないか。

華光の集いとは異なるし、ご聴聞の焦点という点では課題も多い。しかし、どんな小さな芽でも、本来の浄土真宗の原点が生きていることが、とてもうれしいことだ。そして、仲間がおられるきといえ、ひとりでも開いていこうという姿勢が尊い。いろいろと教えれることもあったし、同時に、こちらからお伝えできることも多い思った。もしも、今後もご縁があるのなら、何か連携していければ面白いかもしれない。その時は、ぜひよろしく。

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コメント

今、思えば行こうと思えば行けてましたね。
正直いって、親父の選択には理解しかねる部分があります。未だに祖母は植物人間の状態で生きておりますよ。

今、徳島で行われている親鸞展も見てきました。
後生の一大事とは親鸞はいっていないと思います。
仏になろうとしてなれなかった。仏になる道を浄土門に求めたということでしょ。

そら、今、そこそこ幸せな生活をしている方は「今は幸せだけど、死んだら、どうなるのかな?」と思うんでしょうね。後生が苦になる人って、勝ち組の人やと思いますよ。死にたくない、いつまでも幸せな生活をしたいと。今も幸せ、後生も幸せという風になりたいと。幸せを今生~後生へと永続させたいっちゅうことちゃいますかね?

僕は信心、頂いて、念仏の日暮しをしたいとは思いませんね。信心、頂いたら、早くこの世とおさらばしたいんですわ。世間虚仮なんて、嫌というほど味わってますから。無常も一般人の一万倍ぐらい分かってるつもりです。

投稿: 阿波の庄松 | 2011年1月28日 (金) 02:23

岡山ですか、懐かしいですね。
岡山市浜公民館は、私の出身高校の近くです。
毎日、旭川沿いの道を後楽園を見ながら自転車で通学していました。
後楽園はもうすぐ梅が見頃だと思います。
今はもう、岡山に家が無いので、たまに友人と会いに岡山に寄るくらいですが。
岡山は真宗の寺も少なく、門徒の方もあまり居ません。
その中で法座を開かれておられるのは、大変だと思います。

投稿: 淀川コナン | 2011年1月29日 (土) 09:40

阿波の庄松さん>
岡山の法座残念でした。

>後生の一大事とは親鸞はいっていないと思います。

 はい、この言葉は蓮如様のお言葉です。しかし勝手な独創ではなく、「往生極楽の道(往生の一大事)」「生死を出ずべき道(生死の一大事)」という浄土教の流れや親鸞様を受けられた端的を表されたもので、ここを外して「浄土」真宗はないと思っています。
 それに、お経の解釈や理解も大切だけれど、結局、聞法は、その教えこそが、私が問われてる鏡で、そこに私の姿が映っているわけでしょう。いくら迷いの私が、私を理解しても、所詮、迷いの世界の出来事。

 だから、「だれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて、深く弥陀をたのめ」といわれる。それは、私がわかる・わからんではなく、また賛同するからとか、理解したからでもなく、どこまでも、今生の一大事しかない、いまの幸せしか求めていないこの私に向かって発せられる、真実の言葉、仏説だとお聞かせいただくところから、聞法が始まるのではないですか。
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淀川コナンさん>
そうですか。岡山のご出身でしたか。このあたりは高校がたくさんありました。実は、先日も、行きつけのカフェの人も、この近くの高校だと懐かしがっておられました。
岡山は、真宗が少ないんですね。まあ、結局は、門徒がどれだけ多くても、自分の問題で求めていくかですからね。人の数だけではない。そんな中で、組織のためでも、金集めでもなくて、ただコツコツと法座を開かれていました。尊いことですね。

投稿: かりもん | 2011年1月30日 (日) 00:11

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