広島支部法座in廿日市市~修行者と羅刹~
広島の廿日市市の会場での広島支部法座。
廿日市は「はつかいち」と読む。広島駅から20分ほどで、厳島神社で有名な宮島があるところだ。
通常は広島駅の近くが会場だが、昨秋の合同法座終了後の懇親会を廿日市の「ながと」で開いてもらったご縁から、今回の法座が実現した。
瀬戸内海の地域にも雪が舞う中で、皆さんが、地元の知人を連れお参りくださり、ここを会場にした意味もあった。それも20歳台の女性から大学の元先生、何十年ぶりの仏縁の方や、同級生の方と、それぞれが不思議なご因縁でお参りくださり、いいご法座になったと思う。生きづらさを感じ、自死を選ぶところまで追い詰められながら、いまは頑張っておらる方のお話もあったが、皆さんがとても温かく迎えてくださっていた。
事前に初参加者が多いとの情報があって、ご法話もなるべくわかりやすい話に努めた。そこから、ちょっと発展させていま少し取りあげるが、まずはこの話題から。
歎異抄の第2章「身命をかえりみず」と、いろは歌で有名な「修行者と羅刹」にからめて、「命より大切なものは?」が最初のテーマ。
真実(仏)の言葉を、前半だけ語った相手が、おそろしい羅刹(鬼)。しかも、後半の一言をを聴くには、いのち(血肉)を要求される。しかし、行者はなんの躊躇もなく決意する。真実の教え(しかもたった一言の真理)を聴くために、このおそろしい羅刹を師と仰ぎ、上座に据え、頭を垂れて、命懸けで教えを乞うていかれる。そして、たった一言を体得して、長の迷いから目が覚められるのだ。そして、約束どおり、
「一言半句の教えのために、この身を捨てる我を身よ!」と、
命を捧げていかれる。文字通り、真実を求められたお姿である。
間違っても、「命懸けで聞け」とか、「もっと真剣に聞かねば」という自分を奮い立たせるような今生のレベルで捉えていては、この話のお心はわからない。
なぜなら、どんなにいい格好をし、どんなに強がってみても、私は常に身を惜しみ、命を惜しみ、損得で生きている自分中心の塊であって、修行者とはまったくの正反対だからだ。
しかしである。そんな私に如来様の命で荘厳(しょうごん)された「南無阿弥陀仏」の願いがかかっているのである。そのために、羅刹の私にも頭さげて下さり、私にいのちを投げ出してくださっている。その命懸けの真理の、たった一言の雄叫びをお聞かせに預かるのである。
しかもそれが、命懸けにもなれなければ(死ぬ気になったから、死ぬのが怖くないからという話ではない)、後生すら何もわからない、無明の闇に沈む私をめがけての、如来の金言-仰せが響き届いてくるのである。
その先手があるからこそ、下らないこの頭(こうべ)を垂れさせ、おのれを空しうして、たった一度(ほんとうは難しいことでないのに、これほど難しいこともない)、その一言をお聞かせに預かるのである。それが、「善知識の言葉の下に、帰命の一念を発得せば、その時もって、娑婆の終わり、臨終と思うべし」の世界。しかも、それは、何時の日でも、明日でも、また宿善が整ってからでもない。そんな先に延ばしている悠長な時間はない。まさに仰せを聞いた、「今日」、たった「いま」、たった一言の「南無阿弥陀仏」を聴く。そして、迷いの奥山を、今、超えさせていただくのだ。
身を惜しみ、命を惜しむ我が身が、如来さまの命懸けの、たった一言の叫びをお聞かせに頂いて、迷いの命を打ち止めにしていただくのである。
勿体ないことやね。(ブッタ篇に続く)
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