選択本願
今年最後の伝道研究会。
6月から、同人の方なら、どなたでも出席できるスタイルになったが、今夜は、福岡の大派のご住職のT先生も出席くださった。京都での布教の後で残ってくださったのだ。
まだ第一章の「弥陀の発願」のところだが、今回は、選択本願と、五願開示(真実五願)という、本章の要点といってもいいところだった。
前回は、真仮三願のところ。四十八願には、衆生の生因について、18、19、20の三願が示されている。そのうち、19、20願は、方便の願である。しかしながら、真実の18願も、方便の願も、すべて阿弥陀如来の大悲の願海に報うて起ってきたものである。
ところで、もともと(七高僧の場合)、選択本願とは、四十八願のすべてを指す立場(因本願)もあるが、宗祖は、根本願として、第十八願を選択本願と見られたのである。つまり、真仮の生因三願は、すべて大悲より起っているが、選択本願として、選び取り、選び捨てをされ現れてきたのは、第十八願のみなのである。それが、テキストの冒頭に引用された、「選択本願は浄土真宗なり」(御消息集)とのお言葉となるのだ。
以前も触れているので重複するが、選択は、「せんたく」ではなく、真宗では「せんじゃく」と読む。もともと、この「選択本願」とは、法然上人が、その著書を『選択本願念仏集』と題され、さらに、「本願章」には、 「選択とはすなはち、これ取捨の義なり。いはく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て、人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり」と顕しておられる。それを受けた、親鸞聖人も、第十八願名について、「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく」と示されているように、まさに、「浄土真宗は選択本願なのだ」ということになる。だから、この場合の浄土真宗は、小さなセクトとしての宗派名ではない。
法蔵菩薩の願い、ご本願は単なる願いではない。「選択摂取されたご本願」であり、真実の願なのである。
世自在王仏のみもとにあって、そのご指導をもとに、二百一十億の諸仏の刹土を覩見された後、「二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す」と示されているが、法然さまは、選択と摂取は、言葉は異っても同じ意味であるとみられている。つまり、選択には、「選取」「選捨」の両義があり、それに対して、摂取には、「選取」の義のみがあるように見えるが、その選取はそのまま他の「選捨」であるので、選択と摂取とは同じ意味である。もちろん、ここでの摂取は、「摂取不捨」とは別義である。
では、なぜ、選び取り、選び捨てをしてくださったのか。そのおこころは、「出離の縁有ること無し」、諸仏方のお力では絶対に救われる縁のない私くしを、なんとか救いたいの一点にかかっている。つまり、仏願の生起-そのお心が起こってきた背景が、ここにある。だから、誰のためのご本願なのか。なんの為の選択であり、五劫のご思案であるのか。そこに私が抜けると、単なるおとぎ話か神話であって、いつまでも自分の問題になってこないのである。
その十八願の願意が、信心(至心・信楽・欲生の三信)正因であることを明かすめに、十八願を、11、12、13、17、と18願に開かれた真実五願、つまり、法然上人の一願(十八願)建立の立場に対して、信心往生たる五願開示の立場が、親鸞聖人の発揮といっていいのであっる。
次回は、1月25日(火)夜7時30分から…。
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