東海支部法座。
名古屋か、その周辺の愛知県下が多かったが、今回は、岐阜市内の会場。岐阜駅駅ビルに直結していて、駅からが便利だ。会場も、和室で明るくて広いし、人数が増えても大丈夫なことや、グループに分かれた分級座談会が持てるなど、便利な点も多い。
高山や福井からお参りもあって40名ほど。初めての方も多かったし、来年1月からは、役員もフレッシュに生まれ変わり、うまい具合にベテランと若手が融合しつつあることが、楽しみだ。もちろん、これからのお育てが大切だけれど、いろいろと可能性は大きい。
ご法話は、お釈迦様のカルテという話。K先生の「阿弥陀様のカルテ」の改訂してお話させてもらっている。というのは、阿弥陀様が、私の重病人、死に至る不治の病(難治の三病)であることに驚きを立てられて、それをみなわしてくださったのが、すべての始まりで、そのことを教えてくださったのが、実はお釈迦さまだからだ。大経下巻の三毒段にあるように私の迷いの実相が、いわば、その迷いの症状にあたる。そして、それを、お釈迦さまの口をかりて言葉となり、七高僧方のお示しを通し、親鸞様のご出世があり、蓮如様を始めとする善知識方のおかげによって、いま、私達がそのことをお聞かせに預かっている。
しかし、それを具体的に教えて下さっているのが、実は、私を担当してくださる、いわば担当医の先生である。以前、ここにも書いたが、お医者様なら誰もでもいいというわけにはいかない。後生のことも同じだ。善き師に出会う。そして、善き友に出会う。そのことが、仏道のほとんどすべてを成したことだというのである。ぼく自身でいうならば、その先生に出会えたことが、いまの自分のすべてだと言ってもいい。そう言い切れることが幸せである。そして、私を必ず直してみせるとおっしゃってくださる先生に出会ったあとは、その言葉をそのまま聞かせていただくだけでよかったのだ。だから、あっちの先生、こっちの先生とつまみ食いをしながら、いいとこどりの聴聞ではなて、しっかり善き師に会わせてもらったかどうかが、とても大切になるのである。
もっとも、「先生に出会ったあとは、その言葉をそのまま聞かせていただくだけでよかった」と言っても、そこが、また難関なのである。なぜなら、私は聞き間違うからである。だから、聞いたところを口に出して、私の聴き方の間違いを糺してもらうのだ。「聞き間違う」それが凡夫の聞法であり、それを糺していただくことが、聴くことなのかもしれない。迷いの轉倒の身が、真実そのものを正しく聴くことなど出来るわけがないのだ。
第一、私の願いは、ただ痛みを緩和したい、症状を少しでも楽にしたいという、目先のことにしかないからだ。症状である、四苦八苦(一切皆苦)に苦しめられていると、後生なんてどうてもいい。いまの苦しみから逃れたい。痛みを緩和したい。少しでも、症状を楽にしたいの思いしかないのだ。逆にいうと、痛みがなくなったり、気分がすぐれたら、病気が治ったと錯覚してしまう。そんな表面のことしか分からない。しかし、私に実感や自覚がなくても、おそろしい病ほど、静かに内部で進行し、身体を犯しているのだ。それが、私の三毒の煩悩のおそろしいところである。外からの攻撃(ウィルス)に対しては、防衛反応が働き、攻撃に痛みが伴って信号を送ってくれる。しかし、私の中から生まれた(たとえば、癌細胞)ものは、初期には無自覚で気づきにくいのと同じだ。自分の内のことには、気付けないのだが、もし重大な自覚や痛みが出てからでは手遅れになっている。
だから、そのことが分かっておられる名医は、表面の痛みの対症療法ではなく、ほんとうにおそろしい病のもと、死に至り、万劫も二度と浮かぶことのない大本である、無明業障のおそろしき病を取り除くこと、つまり火の元を消すことを第一に、その根本的な治療法である、南無阿弥陀仏の妙薬を、それをたったひとつに絞って勧めてくださっている。ほかの治療法では間に合わない。私の何かを改めたり、直したりする時間もない。ただ、ひとつだけ。私の絶対に治らない病を完治させるためだけに、そのいのちを投げ込んで、私ひとりに合った、私専用の特効薬を作ってくださった。その薬そのものになってくださった。そして、「どうか飲みづらいかもしれないが、それをそのまま、たったひとつ「南無阿弥陀仏」の薬飲んでください」、と、頼んでくださっている。そのことを、いま、名医に出会って、正しく教えてもらっているである。目先の幸せを求め、痛みの緩和に腐心したり、自覚がないので大丈夫だと自惚れている私がお目当てだと、聞かせてもらっているのである。
それでお育てによって、ここまで歩ませてもらってきたのだ。だから、今回の座談会でも、とても真剣に聞いておられる方が、いろいろと発言してくださるようになる。どの方も、理屈や言葉は正しい。しかし、真剣に聞こう、私が分かろうとされているのだが、たとえば、「南無阿弥陀仏の薬が出来あがっているので、そのまま素直に飲むんですね」とか、「すばらしい薬が出来て、有り難いですね」とか喜んでいたしてとも、いちばん肝心のお薬は、まだ手の中にあって飲んではいなけれど、意味はない。そして、飲んだらどうなるのか。こうしたら飲めるのか。どんな味がするのか。いかにすばらしいものか、飲んだ人がうらやましいとか、どこか人ごとの問題として眺めているだけなので、ひとつも味がしないと、ただ嘆いておられる。
私ひとりが迷える一人子のようにかわいくて、自らのいのちをかけて助けてみせると、私に仏様が願って下さっている。それは、私の思いや自覚には関係ないのである。いや、私が無自覚であるがゆえに、心配してくださっている。私が無明で聞けないから、先に聞き届けて無量の光となってくださっている。絶対に救われない奴なので、絶対に救ってみせるとおっしゃっているのである。
そして、いま、しっかりそう教えてもらっているじゃないですか。
あとは、ただ「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」、と聞かせてもらうしかないなー。