底抜けの喜び
秋晴れの中での日高支部法座。
9月聞法旅行の余熱で、まだ燃えていた。
その余韻もあって、外からのお参りがあって、大きな刺激をお互いに受けた。広島からお二人、福井からもお一人の3名の方もご一緒だ。年齢からいれば、お子さんの世代よりもまだ若い人たちだが、その大きな法悦に浸らせてもらって、ぼくも大きなお得をもらった。迎える側も、訪れる側も、そして招かれたぼくも、そこに如来様も含めたら、まさに「四方すべて善し」の相乗効果だ。
聞法旅行の分級座談会の時のように、我が身の喜びを語りながら、遠方からの求道者に、ご示談をしてくださった古老の男性。けっして流暢なしゃべりではない。むしろ、年齢からか羅列が回らず、言葉が聞きづらいときもある。それでも、その篤い篤い仏法の喜びのぶこころが、その迫力ある姿が、こちらの堅い堅い、理屈だらけで、言い訳だらけで、いつも自己保全しかないつまらないものにも、しっかりと届いてくるのだ。
老苦、病苦の身を抱えながら、そのからだ全体からの圧倒的な喜びだ。
そうだ、皆さん、底抜けで仏法を喜んでおられるのだ。
子供の報恩講がすんでからの会食。全盛期の1/4程度の人数になっている。それでも、ご法の話になると、みんなイキイキとしだす。「80過ぎのおばあさんも、20の娘も、同じ親のお念仏を喜んでるのなら、一味やな」と、誰かがいうと、「そうや、私らいまだに18歳やー」と言っては、こころから大笑をされる。そして、笑ったと思ったら、今度はわが身の粗末さを懺悔され、仏法に出会った喜びに語り、変わらぬ善知識への報謝の念をこころから涙し、その身一杯で表現されている。どこを切っても、南無阿弥陀仏、まさに自然な常念仏が響く。ああ、この喜びは底がないのだ。何の条件も、ためらいも、周りの空気もお構いなし、キョロキョロと誰かと比較することもなく、まったく自分事として、泥凡夫のからだ全体からほとばしる喜びを表現されている。それが、こちらにもパンパン伝わってくるのだ。
今朝、お参りに出かける前、ほんの短い時間、Hさんと掘ごたつでお茶を飲む。9月の聞法旅行で、感動的な、しかも爆笑の感話をしてくださったHさんが、こうおっしゃった。
「不法・懈怠の私に、これでもまだ疑うのか、これでもまだわからんかと、この私に目にものみせるために、諸仏・諸菩薩が、わざわさ大挙して、次々とこの地にまでお出でくださったんやな。もったいないなあー。南無阿弥陀仏」と喜んでおらる。どこどこまでも、自分に法を味わっていかれるのである。
仏法は、理屈や根拠なんかじゃない。今頃は、ネットで検索して、ご文・法語を知って、すぐに「分かった、分からん」「これが正しい、あれは間違ってる」と、いちばん大問題を自分を抜かしてやっているが、そんな薄っぺらい、小さな仏法じゃないんだ。そんなところに留まっていると、妙な喜びや体験を握っては、わが心を隠したり、誤魔化したり、ギクシャクと構えたりして、すぐに善しになって、仕上がっていくかしないのだ。そんな時は真実信の同行や知識がどこかでおそろしく、煙たいので、ますます独善的になる。でも、如来様の大悲には底がない。だから、そんな私の浅はかな、ちっぽけな底など作って、分かる必要などないんだ。むしろ、私が空っぽのままだからこそ、そのままに虚空の如くに際のない「南無阿弥陀仏」が自由に往来してくださるのではないか。聞いても、聞かなくても、こちちは、虚仮の空っぽなのだ。ちょっと念仏が出た、ちょっと分かった、何かご文で気付いたら、すぐにしたり顔になって、つまらん自己流の念仏を握りにかかって、賢こぶって念仏者になっていくが、その私の中味はなんだろうか。そこを聞くのである。
ここの人達は、一文不知の尼入道でありながら、まさに泥凡夫そのままの姿ながら、後世を知り、一念のいわれを知った智者ではないか。煩悩も、感情も、泥凡夫の姿も、すべてそのまま、まるまる、まるまる如来様にまる投げされている。
ああ、こんな尊い念仏者に、ぼくはこれまでお育てをいただいてきたんだなー。なんと勿体なくも、尊いことではないか。でも、これまでは、この無上の真の価値がわらかならいたわけものだったのだなーと思うと、涙と共に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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コメント
南無阿弥陀仏 仏法は一人ごと しかし一人では聞けない 讚嘆談合はお聖教や著名な言葉の羅列ではない。生身のこの私を通じてでることば(慶喜や懺悔)である。ここにはかりもん師がいることへの信頼があってのこと。包み込まれる安堵ですね。これは同行だけの支部法座では難しいですね やはりあらゆるご因縁が揃って生まれる讚嘆談合であります。あらためて皆様にお礼申し上げます 南無阿弥陀仏 「報恩講のうた」を皆さんで歌っているとき、込み上げる涙に南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏とお念仏がでてくださいました娘が不思議がってキョロキョロと私をみていました。南無阿弥陀仏
投稿: 稜 | 2010年11月 8日 (月) 07:00
「善知識同行には親しみちかづけ」は本当だと体で知らせてもらいました。役にもたたない私の思いは木っ端みじんにされました。まさに聞いてた通りのピストルの威力でした。
法座は一座と案内にありましたが、懇親会も会食も、散策しながらの会話も全てが私にとってはご説法でした。
がり版ずりの華光誌を手にしたときは言い知れぬ感動と感謝で胸がいっぱいでした、先生、日高の皆さん有難うございました。
投稿: relax | 2010年11月 8日 (月) 22:37
稜さん>ありがとう。もうひとつ、訪ねる人があってればこそです。無辺の生死海を尽くさんとして、「前(さき)に生まれんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ」という、連続無窮のお働きを、目にものみせてもらいました。
relax さん>ご一緒できて、ぼくも楽しかったです。まさに、ご法に撃たれぱなしでしたね。子供会も、子供さんはけっして多くなかったけれど、大人と一緒に、二河白道のご法話を聞いてもらえてうれしかったです。先代から続く、土徳ですね。
投稿: かりもん | 2010年11月 9日 (火) 01:34
かりもん先生ありがとうございました。
またもや鉄砲よりきついやつでバンッバンッ撃たれました。
(土徳)って言葉は先日 かりもん先生に教えていただきましたが、まさに・・・です。
聞法旅行でお会いしたH氏のご示談・・・恥ずかしい限りです。
今、こうして書いていても、どっかで聞いたこと、読んだことが飛び出しそうです。
今日、九州のK先生と広島のお同行さんが ながとへご来店、私ももれなく呼び出されご一緒いたしました。まったく 忙しいのに・・いやいや、とても楽しかったです(笑)
投稿: カワラヨモギ | 2010年11月 9日 (火) 23:49
はい、カワラヨモギさん、こちらこそです。皆さんがお出でくださったおかげで、随分と、刺激にもなったと思いますよ。Hさん(男性)も、すごかったけれど、Hさん(女性、S代さん)の夜の話も尊かったです。皆さん、高齢になろうが、認知になろうが、底が抜けている気がしました。『仏敵』に登場する同行のような気がします。
今日は、「ながと」で、盛り上がったんですね。
投稿: かりもん | 2010年11月10日 (水) 00:39