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思いもよらないこと

ひとつ目の話

 自力整体のお仲間から声をかけられる。

 「一昨日の12時すぎに、高辻烏丸の京都銀行の駐車場に車を止めていたら、かりもんさんが、歩いてこられたんですよ。例のカフェに行かれるのかと思って、『かりもんさん、かりもんさん』と声かけたら、周りの人ばかり振り向くんですがね。真っ赤なジーンズ履いて、若い人のようでしたよ。その後、車をだしたら、また自転車で出て来られたのに、バッタリあって、クラクションを鳴らしたらビックリされるからやめたけど、しばらく並走してましたよ」。

 ああ、スイマセン。それはぼくです。ベトナム戦争のドキュメンタリー映画の後で、自転車を取りに行ったのだ。でも、ぜーん、ぜーん、知りませんでした。

 見てこざる、知ってござるで、知らぬは自分だけと思うと、ちょっと薄気味悪くもある。
こりゃ、こそこそ悪いことはできんなーと。

ふたつ目の話

 やはり、今日の自力整体にて。

 例によって体重(体組成)計に乗っていると、

「かりもんさん、聞いてますか? 〇〇さんが、先週の金曜日にお亡くなりになったんですよ」

「エー! 〇〇さんって、7月の10周年のお祝いに時にも、あんなに元気だったじゃないですか?」

「えー。その後も、私はランチしてるんです。お祝いの時の写真が、葬儀の思い出の写真で、トップで上映されていましたよ」

 ああ、先生のブログにあったお悔やみとは、彼女のことだったのか。

 まだ、58歳。数年前から癌の闘病生活をされていたとはいえ、先日まで、あんなにお元気だったのになー。

「延命処置を断られて、最後まで彼女らしい、しっかりした逝き方でしたよ」

 改めて、撮影した写真を見た。歌うように、彼女がお祝いの言葉と、いまの気持ちを発言されているところが収まっている。いきいきと楽しそうだ。

 それにしても、そんなに悪かったのも初めて聞いた。ここ数年は教室で会うこともなく、親しくしていたわけではないので、あいさつする程度だ。もちろん仏法の話などしたこともない。

 それでも「袖すり合うも他生の縁」だ。彼女とは、過去世でどんなご縁のあった方だったのだろうか。残念ながら、神通力のないぼくには分からない。では、ぼくは、この今生だけでも、どれだけの人と袖をすり合わせていくことになるのだろう。別れては出会い、また出会っては別れていく。その繰り返しで、袖をすり合わせた方のほとんどが、ぼくの預かり知らないところで、静かに往かれていくのだ。もちろん、ぼく自身も、またそんな身なのだ。

 では、その間に、どれだけの人と、ほんとうに心を通わせあい、分かり合い、語り合うことができるのだろうか。そして、仏法を喜び合えるのだろうか。

  今日のレッスンの間、そんなことがぼんやりと去来していた。 

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コメント

今生で親子、夫婦、兄弟となるのはよほどの因縁があってのようです。まぁ、兄弟といっても、うちは僕の現状を見て、弟は一言も喋ってくれません。兄弟間の会話は一切ない状態です。

自分が駄目だというところを聞かせて頂く。といいますね。

ご法とは関係ないかもしれませんが、「いよいよ、自分は駄目だなぁ…」と最近、感じます。就職もないし、年金もかけてないし、健康保険もない。唯除@就職、唯除@結婚と社会のあらゆるものから唯除されている自分が見えます。

先では、生活保護、ホームレスが急増するでしょうね。ですから、その前に信心決定しておきたいと。そうすれば例え、路上で死んでいくことになっても喜べると思います。

ヤケド関係の団体も退会しているので、他の人がどこで何をやっているか、分かりません。ヘタをすれば、ネット上で対話しただけで実際に会ったことのない人も結構います。(今の時代に多いですね、そういうのは。)

投稿: 阿波の庄松 | 2010年11月15日 (月) 02:24

うん、そうか。いろいろなご縁があったんだろうなー。
>自分が駄目だというところを聞かせて頂く。
あくまでこの世の中で比較ではなくて、如来様(真実)の鏡に写るところをお聞かせに預かるんだことですよね。

投稿: かりもん | 2010年11月15日 (月) 23:54

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