聖典
先日の日高支部のお参りの時、「先生、イセちゃんからです」と、一冊の古い聖典を頂いた。
表の見返しの部分には、
「蓮如上人仰せられ候
本尊は掛けやぶれ、聖教は読みやぶれと、対句にて仰せられ候」
「平生の時、善知識の言葉のもとに帰命の一念を発得せば、そのときを以て娑婆の終わり、臨終と思うべし」との揮毫があり、
箱には、「釋顕昭」とある。
日高同人の先代からの知識である鎌田顕昭師が、(たぶん当地にこられた)10周年記念に同行に贈れたものだという。母親から娘(といっても80歳以上の高齢)へと受け継がれたが、「この先、きっと粗末になりますから」と、ぼくに託されたのである。
80年以上前のものなので、聖教部分はともかく、法語や掲載の消息が、今日とは違う。 戦時中ほどではないにしろ、皇国史観が前面に押し出されている。特に、明治以降のご門主の消息は、かなり勇ましい。
第3編の法語は、その見開きから『破邪顕正鈔』(存覚上人)の「仏法・王法は一雙の法なり。鳥の二つの翼のごとし、車の二つの輪の如し」として、俗諦としての皇恩を前面に出した、真俗二諦論が展開されている。しかし、これは今日の教団では、完全に影を潜めている。しかしである。「朝家の御ため、国民のために」(御消息25通)のスローガンが、「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」(同)(数行進んだか)に代わっただけのことではないか。スローガンが変わっても、結局、世の中(世俗)に迎合していく姿は同じで、ほんとうに信心の内実を問題にしているのだろうか。もし、根本的な反省もなく、その構造や機能はそのまま引き継がれたとしたら、スローガンがソフトになった分、見えづらくなって厄介かもしれない。
横道に逸れた。
この聖典の編集の意図が面白い。別に理に適った話なのだが、今日の状況を考えると、面白いということである。
「最近、吾が国の青年男女が寺院に遠ざかり行く傾向は、誠に心ある人々の憂慮するところである。これには、適当な聖典を編集して、これらの青年男女をして常に聖語に親しましめるという事が、もっとも緊要なことである。」
へえー、昭和4年段階で、既に青年のお寺離れが深刻になっているというとこだ。いつの時代もそうなのだろうな。でも、いま真宗の寺院にお参りされる世代は、この年代ごろに生まれた方が中心だといってもいい。ということは、常に聖語に親しましめるという成果が現れたということなのか? ともにかく、いわんや、今後は…をやである。深刻度は増すばかり。
さて、聖典は、とてもコンパクトで持やすいのだが、残念ながら、ご本典や御文章もその一部だけの抜粋なので、普段のご法座では使えない。
それでも、この地の先代の知識である鎌田先生から、その法灯も一緒に引き継がせていただくという思いも湧いてきた、有難く頂戴することにした。
長らくお仏壇に入っていたのだろうか。芳しいお香の匂いが染みついてる。
まさに、法が薫習(くんじゅう)されているだ。
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