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「正信偈の大意」の輪読(1)

 昼の部、夜の部での1日法座。

 昼の部は、華光誌輪読法座。祝日なので、和歌山や愛知からの参加者もあって、いつもより賑やかだ。

 今回から『正信偈』なので、本派の勤式指導所を卒業された僧侶の調声をお願いして、みんなで声に出して勤行した。やはり本格的な人は、美しさと荘厳さがある。こちらまで、背筋がシャッキンと伸びる思いがした。

 今回の誌上法話は、「法話」ではなく、『正信偈の大意』という誌上「講話」。聖教や教義的な問題点が扱われている。そこで、いつも輪読形式から、華光誌だけでなく、講義時のプリントをと、浄土真宗の聖典をもとにしながら、補足や解説も交えて読んでいくことになった。

 まず今月は、その前半。「正信偈」の中味には触れられず、ほんとうに入り口の入り口。

 著述の時と所、著述の目的、読誦の心得、そして「正信念仏偈」という題名について詳細に触れたところで、3時間30分が終了。些細な質問や、奇抜な質問にも応えたり、それぞれが味わいを語ったりするので、すぐに時間はなくなる。

 お正信偈は、浄土真宗のご門徒にとって、もっとも慣れ親しんできた偈文である。しかし、それも、蓮如さまのおかげである(蓮如さま以前は、善導大師の『六時礼讃』(往生礼讃)が勤まっていた。今回は、本山の報恩講などで勤まる『六時礼讃』の経文を見せてもらったが、美しくても難しそうだった)。当時の一般庶民(今日の我々にもそうだが)にとっては、『本典』(顕浄土真実教行証文類)は、漢文で書かれた高尚で、難解な書物である。その中から、真宗入門でもありながら、聖人の領解が余すところな述べられ、讃仰された「正信念仏偈」を抜き出し、さらに仮名交じりで讃歌として誦唱しやすい「三帖和讃」と合わせて開版され、日常の勤行として定めてくだされた蓮如上人のご功績は大きい。

 たとえ、一文不通のものであっても、日常での拝読で繰り返し繰り返し聴くことで、ご文がからだに染みついてくる。幼き日から、お正信偈やご和讃、さらにはご文章の拝聴を通して、知らず知らずのうちに仏縁が育まれてきたのであろう。今日のように、屁理屈や根拠などと頭でっかちになる以前に、その身に染みついてきたのであった。「あった」というのは、称名も含めて日常勤行の機会が、だんだんと減ってきているからだ。

 さて、正信偈は、その偈前の文から窺っても、如来様の深い深い、ご恩徳に触れ、その徳に報いる、つまり知恩報徳のために顕されたものである。御恩報謝のために顕されたのであるから、それを頂くものにとっても、それは同じではないか。けっして、儀式や儀礼のために頂くのでも、我が身の功徳や回向のために、つまりは宿善を積む目的で勤行するのではないことは、すでに蓮如上人のご指摘もある(御一代記聞書・第11条・第32条など)。どれだけ清浄な美しい清水であっても、たった一滴でも我が毒のこころが混じわるならば、雑毒の善となってしまうのである。

 ならば、脇道に寄らずに、御恩報謝の身にならせてもらうことが、肝要なのだ。お正信偈の心とぴったりとわが身が喜べる、信心獲得の身とならせていただくのである。いくら上手に勤行できても、またその意味が流暢に説明できたとしても、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と喜び身になっていなければ、こんな虚しいことはない。

 ところが、未信の間は、私が理解する対象としてしか捉えられない。だから、聖教の方を、自分に合うようと解説したり、覚えたり、また理解のためにいじくったりしてしまう。それを「はからい」というのである。
 お聖教をいじるのがダメなら、今度は、自分の胸の方を触って、なんとか合わそう、合わそうに腐心していく。わが心がありのまま聞けないのである。
 そうではなく、そのおこころがそのまま頂けるまで、お聞かせに預かるのである。そのまま頂けるということが、信心獲得の身になることだ。そうならないから、聖教をいじくるか、わが胸を触るか、分からないからと遠い宿善に励むなどして、余計なところに力が入っていく。それが自力なのである。

 だから「知恩報徳」のお心とは、まったく方向が違う。わが身の「善し・悪し」ばかりを問題にして、如来のご恩の高いことを聞いていないのだ。それで、そのご恩を知りなさいと仰っている。知るとは、ほかのことではない。釈尊や七高僧、宗祖、歴代の知識方のお導きによって、如来様のご恩徳の高いことを聞くことにほかならない。知る=聞くのが真宗のお法りである。結局、それかお正信偈の製作の契機であり、拝読の心得だといっていい。

 今回は、そんなところから、「正信念仏偈」の題名について、

➀「正信」(信心正因)=目とし、「念仏」(称名報恩)=足として浄土往生させてせらう、信-行の関係と、

➁「念仏」(第十七願の名号)を、「正信」(第十八願の他力信)する。行-信の関係から、「行-信-行」の大切なポイントを触れたところで、時間切れとなった。来月に続く。

 もっとも、今日の法座は、夜の部「伝道研究会」へと続いていった。

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