比良への家族旅行(3)三井寺(園城寺)編
翌日は、近江舞子の内湖に立ち寄ってから、三井寺(園城寺)へ。
ここも2、3度、訪れているはずだが、子供心に、見事に何も覚えていない。ただ行ったと言われた記憶だけがあるのだ。
三井寺は、天台宗でも天台寺門宗の総本山。天台宗といえば、比叡山延暦寺が総本山なのだが、同じ最澄(伝教大師)を開祖としながらも、智証大師を中興として、東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺」の一つに数えられる大寺院だった。歎異抄2章の「南都北嶺」にもあたるそうだ。北嶺は、比叡山だと思っていたが、三井寺も含まれるわけですね。
その後、勢力爭いで、延暦寺と袂を分かって以降、強大な権力と武力を持っていた比叡山が「山門」と呼ばれたのに対して、三井寺は「寺門」と呼ばれて、常に比叡山の対抗勢力として、隆盛を窮めた。強大な比叡山を抑えるために、権力者の庇護も受けたのだ。当然、両者の勢力爭いも絶えず(ヤクザの縄張り抗争と同じだ)、比叡山の僧兵による焼き討ちで壊滅的な被害も受けたり、時の権力者との関係で、複雑な栄枯盛衰を繰り返し、今日に至っているようだ。
残念ながら、パンフレットには一行も触れられていないが、浄土真宗の中興の祖、蓮如上人と、三井寺(園城寺)との関係が深かったことは、三井寺のHPでも紹介されていた。(蓮如上人と、三井寺との出会い)
http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/119.htm
『後生の一大事』(吉崎までの蓮如上人)を参照にしながら、簡単に触れておくと…。
比叡山延暦寺の西塔の衆徒による、寛正の法難(大谷破却)、敗走した蓮如上人は、各地を転々としながら、近江堅田の本福寺住職の法住のもとへ。そのころ、湖上交通の拠点として発展した豊かな経済力を背景に力を蓄えてい堅田門徒だったが(余談ながら、ぼくは大学院の時代、このあたりの背景を千葉乗隆先生の講義を聴講していたが、作家の五木寛
之氏も聴講生で、このあと「蓮如」を発表された)、比叡山のお膝元での布教活動は、利害の衝突を招き、「堅田の大責」として武力弾圧で、大敗して過分な礼金を納入して収まるとい事態が続いた。ここに至って、比叡山(山門)に対抗する勢力として、三井寺(寺門)に保護を受けて、親鸞聖人の祖像を守るべく、三井寺の南別所の近松にある
満徳院内に、顕証寺を建立されたが、両者にとっては利害が一致したのであろう。
ところが、10年後に、山科本願寺が再建され、祖像を引きとろうとしたときに、三井寺側と事件が勃発。参詣者増えたこともあって、生首二つと引き換えという条件がだされた。いわゆる堅田の源右衛門、源兵衛(げんべい)親子の生首の伝説がある。いまも、堅田浮御堂の側の光徳寺に、その頭蓋骨が安置されているのを観ることができるので、何度か聞法旅行で参詣している。とにかく、山門、寺門の対立は、当時の新興勢力であった本願寺も関係するところであったのだ。
もっとも、この生首の話は、あくまで真宗側のこと。三井寺側の話は少し違っていて、その時の本願寺側からの御礼で、いまも三井寺の観音堂内にまつられる親鸞、蓮如上人の祖師像が贈られたことになっている。まあ、それはそうでしょう。自ら無理難題を吹っ掛けたとは名乗れないだろうし、あくまで生首は伝説的な話。
上から写真順に、➀仁王門→➁釈迦堂(清涼寺式釈迦像が安置されていた)→➂国宝の金堂(背後には、雑多な諸神、諸菩薩、そして如来がおまつれされている。ほんとうになんでもありである)→➃三井の晩鐘(近江八景)と、⑤弁慶(ここは伝説)の引き摺り鐘(本は重文で、これは有名)→三井の霊泉(三井寺のおいわれの泉)→⑥三重の塔→➆唐院(ここは静かで荘厳な雰囲気)までお参りしたのだが、少し離れた石段のある観音堂までは参拝できなかった。肝心の祖師像にお会いできなかった。残念だったが、今回は仕方がない。➁のところで、すでにリタイヤして休んでいた人がいたので、またの機会に…。
紅葉はこれからだが、紅葉がすばらしい。晩秋は見事だろう。
最後は、境内にあった芭蕉の句碑。
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