超世の悲願~10月の伝道研
9月の伝道研究会。少しメンバーに変化あり。今日のテキスト部分を、途中からだが引用しておこう。「超世の悲願」というところである。
さらにこの四十八願は、みな第十八願から出たものであることは、これを諸仏の本願と、弥陀の本願とを比較すると、なお明らかになる。
第一願の無三悪趣の願、第二願の不更悪趣の願についていうならば、諸仏についてもこれと同じ願がある。すなわち、いづれの仏の浄土でも、もとより地獄、餓鬼、畜生の三悪道はなく、また、三悪道にかえることもあるはずがない。では、どこが違うか。「三賢十聖住果報(さんげんじっしょうじゅうかほう)・唯仏一人(ゆいぶついちにん)居浄土(ごじょうど)」(仁王般若波羅密経・巻上)とあるように、諸仏の浄土は、その仏一人のための浄土であって、衆生のための浄土ではない。だから、その仏が、ただ一人おられる浄土には、三悪道がなく、また三悪道にももどらない浄土だということである。
これに対して、弥陀の第一、第二願の浄土は、第十八願から出たものなので、罪悪深重の凡夫を救おうというおこころがこもっている。それで、阿弥陀仏のおられる三悪道のない浄土は、この私が往生させていただく浄土なのである。また、一度往生すれば、三悪道にもどらぬのは、仏のためでなく、私のためなのである。
聖人が、「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」といわれたのは、ここである。四十八願は、すべて私一人のため。第三十八願の衣服随念の願とか、第四十六願の随意聞法の願などは、日常の悩みをとおして、そこに第十八願のおこころのあることを知りうる。聖人は、「不思議の四十八願」「無碍の誓願」と申されているが、そのお言葉からも、願数は、四十八とは限りえぬ無量無数の誓願のあることが知られる。しかもその一願一願が、すべて第十八願の「衆生を仏にしよう」という一念の表れであることを思わせられ、「建立無上殊勝願、超発希有大弘誓」の讃辞もうなずかれる。
「なぜ、仏が一人か」という質問がでてが、少し考る機会をもらって、ぼくには有り難かった。
つまり、ここが絶対に諸仏にはない、弥陀の超世の悲願と呼ばれる所以だ。諸仏も仏なので、自利だけでなく、利他の働きで衆生済度が行なわれている。しかし、お釈迦様がそうであるように、その釈尊を手本として、励まされ、導かれながらも、その教えのごとく、おのおのが菩提心を起こし、発願して、修行に励み、自ら悟り、自らの仏身、浄土を建立していくのである。いわば、ひとりひとりの浄土なのである。それが、仏教の本筋だ。
ところが、弥陀の本願と、その願力で荘厳(しょうごん)された浄土だけは別だ。諸仏の教えに漏れた極重悪人のこの私をお目当てに、凡夫のままで最高の仏にさせて見せましょうという、まさに「世」を超えた願いなのである。世間を超えていると共に、諸仏を超えた願いは、誰のためか。「親鸞一人」のためであるように「、私ひとり」のためにほかならいのである。すべての功徳を、この凡夫のために、まるまる(100%)、なんの見返りもなく、取引もなく、条件もなく、すべてすべて回向してくださるというのである。その大悲をおこころで、その願力で荘厳されたお浄土。だから、その端っこに、小さなって生まれるんじゃない。まさに、私ひとりのために建立されたお浄土なんてすよね。ああ、グズグズ言ってたら、勿体ない。
ただ男女・善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、「超世の願」ともなづけ、「横超の直道」ともきこえはんべれ。
と、『改邪鈔』十にあるところ。ここでの、「はたらかさぬ本形」とは、本来の姿そのままで、という意味。だから、この世の常識で考えてもおかしいことで、本来生まれるべからざるのもを、仏にさせよう、浄土往生を遂げさせようという、その大本が、「超世の願」。その仰せをお聞きしていくのが、「横超の直道」なのである。誰をお目当てに、立ち上がらねばならなかったのか。そこを、私に聞かせていただくと、もうグーの音もでなくなっちゃいますけどね。諸手を合わせて降参!
| 固定リンク
「法座と聞法」カテゴリの記事
- 広島での法事(2023.01.22)
- 大阪での葬儀(2023.01.21)
- 葬儀から報恩講(2023.01.14)
- 名古屋での葬儀(2023.01.13)
- 今月から『死を凝視して』(2023.01.08)
コメント
「 ただ男女・善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、「超世の願」ともなづけ、「横超の直道」ともきこえはんべれ。」
(ただ男女.善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって生まるべからざるものを生まれさせたればこそ )
読ませてもらいながら涙のお念仏させられました。勿体なさ過ぎです。四十八願(十八願)は私一人のためでした。私一人のために願を建てて下さった。
こんな私のためにご苦労をおかけしました。また、今もかけどうしです。
こんな有難いところだけのメールですみません。
世間では通らない仏様の大きな大きな超世の願です。ただただ勿体無いしか言葉が出ない思いで今います。
有難うございました。
投稿: ばば | 2010年10月 7日 (木) 12:12
>こんな有難いところだけのメールですみません。
>世間では通らない仏様の大きな大きな超世の願です。た>だただ勿体無いしか言葉が出ない思いで今います。
>有難うございました。
いいしゃないですか。有り難いところだけで…。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
投稿: かりもん | 2010年10月 8日 (金) 00:08